政策化期
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戦後の経済回復に伴い、1960年頃から地震予知の本格的な研究を行おうという機運が高まった。1961年4月に萩原尊禮、坪井忠二、和達清夫の3名による「地震予知計画研究グループ」が発足、萩原の主導により検討が進められ、1962年に「地震予知―現状とその推進計画」とする報告書を発表した。この報告書は通称「ブループリント」と呼ばれ、具体的な成果の見通しを織り交ぜつつ、10年単位での観測研究を通して地震予知実用化のための基礎データを蓄積することを提言するもので、関係機関に広く配布され、その後の地震予知研究や政策に大きな影響力を持っている。「10年間に100億円を投入すれば地震予知が可能になる」と報道されたが、実際には、10年間かけて観測網を整備すれば地震予知の可否が判断できるだろうという趣旨であった。しかし現在では、報告書の内容には誤りや見通しの甘い部分もあったとされ、賛否が分かれている。なお英訳もされており、日本国外でも反響があったと伝えられている。 これ以後、学会と行政の両方で動きが始まる。1963年5月、旧文部省の測地学審議会において同会に地震予知部会を常設することが承認され、行政の立場から地震予知の検討を担った。同年11月7日には以前から検討を行っていた日本学術会議が政府への勧告「地震予知研究の推進について」を発表し学会の立場から地震予知を推進した。そのような中、翌1964年6月16日に新潟地震が発生する。この地震では新潟市を中心に被害をもたらし、建物被害の多さが目立った。この地震が、地震予知の機運を高めることになったとされている。翌月の7月18日には測地学審議会が「地震予知研究計画の実施について」という建議を提出し、これを基に政府内で数年単位の事業計画と予算配分が行われることになる。この建議は地震予知の第1次計画と呼ばれ、1969年の第2次計画からは"研究"の文字が省かれて「地震予知計画の実施について」となった。以降、第7次計画(1998年終了)まで継続される。 1965年8月に始まった松代群発地震により、図らずも日本の地震予知研究の成熟度が試されることとなった。この地震は多くの微小地震が起こることが特徴で、計器がダメージを受けることが少なかったため観測に適しており、国内から多くの専門家が集まって観測が行われることとなった。こうした観測の成果を生かす取り組みとして、翌1966年4月に大学関係者や関連省庁職員により構成される検討会「北信地域地殻活動情報連絡会」が発足し、ここでの見解に基づいて気象庁が地震情報を発表することとなった。その後、1968年に起きた十勝沖地震を受けて国内を広く対象とした検討会の設置が求められ、この検討会をモデルとして、1969年4月に地震予知連絡会(予知連)が発足する。予知連は専門家により構成され、国内の大学や関係省庁等から情報提供を受けた上で、学問的立場から地震活動情勢に対処する機関である。1970年には南関東や静岡など国内の計9地域を観測強化地域または特定観測地域に指定して観測強化を進言した(1978年に指定地域は見直された)。一方、1974年に旧科学技術庁の外部機関として地震予知研究推進連絡会議が発足、地震予知に関する政策立案や省庁間調整、予算面の調整等を担うこととなった。同会議は1976年に地震予知推進本部、1995年7月に地震調査研究推進本部(推本)に改称されている。推本の中核には学識経験者で構成される政策委員会と地震調査委員会が置かれ、後者は日本の地震活動について日本政府の行政的な見解をまとめる役割を担っている。
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