政治・哲学思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 04:38 UTC 版)
「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事における「政治・哲学思想」の解説
知識を力として人間が自然の征服者たることを望み、既存の知の体系を整理、正しい知識を獲得する方法として帰納法を掲げ、人生に適用して人類の福祉を増大させるという学問の正しい目標を達成するための方法であると考えた。理論と実践を結び付け、知を現実社会に適応して政界で出世出来たが、自然についての知識を獲得することが人類を窮状から救う手段との信念に基づき、知識の取捨選択に必要な情報収集、および実験設備、更にはそうして獲得した知識に基づいた技術開発など、知識を現実に生かすには権力が不可欠だとも考え、知と力を結び付け、人類を幸福な状態に導くことがベーコンの最終目標だった。彼自身は失脚で挫折し知と力の結合も自然解明の構想も果たせなかったが、方法は次の世代へと受け継がれていった。 こうした心情を吐露したのが1592年頃にバーリー男爵へ宛てた手紙で、政治的目標と哲学的目標を持っていること、後者が心に強く根を下ろしていることを告白、浅薄な論争や盲目的実験を一掃すれば有益な知識をもたらすだろうと期待を込めて書いている。以後既存の知の体系の批判、新しい知の方法の提示、知の支配力の強調がベーコン哲学の基本的原理になり、エセックス伯など有力者に自己アピールしつつ出世の機会を伺いながら、知と力の結合を夢見て事あるごとに著作や手紙で知の重要性を訴えるようになっていった。同年にエセックス伯のため女王即位を記念して開かれた仮面劇の脚本『知識の称賛』でギリシャ哲学と錬金術の哲学を批判、1594年に同じく仮面劇の脚本として書いた『グレイ法曹院の催事』には劇を通して自然研究のため図書館・動物園・博物館・研究所など施設の建設を勧告、暗に自然研究に政府援助を願ったと推測される。 1605年に出版した『学問の進歩』(1623年に『学問の尊厳と進歩』として増補・ラテン語版に訳した)では、著作で主張していた既存の哲学批判と知の大切さを繰り返し書いている。ここから独自の学問分類法を編み出し、学問分類の原理を大別して真理の性質と学問をする人間の知的能力の区別に二分、前者はあまり詳しく書いていないのに対し、後者は分類を広げて知的能力を理性・想像・記憶に三分、それぞれ哲学・詩・歴史へと繋げ、更なる区分へと続き自然研究も交えて分析・解説していく。また、知識の獲得方法と人間の認識・判断を妨げる意識についても言及、後にそれらは新しい帰納法とイドラの検討という形で1620年出版の『ノヴム・オルガヌム』で発展していくことになる。伝達が知識の使用・進歩・継続に大切だとも書き、1人で知識の到達に努力することの限界を示すと同時に、研究者間や世代を超えた共同作業で知識の発展を促進させることを期待していたとされる。 議会と国王の関係では協調を重んじ、エリザベス1世の治世では1593年議会に庶民院の権利を主張して失態を演じ、1601年議会では国王を擁護して反対の立場に回っていたが、ジェームズ1世の治世では議会と国王それぞれに協調を呼びかけた。均衡憲法論を重んじる姿勢から、議会の議論が国王大権に抵触すると察した場合は議論停止を呼びかける一方、ジェームズ1世には議会の必要性を強調してたびたび議会との協力を進言している。議会からは信頼され1604年議会で庶民院議長候補に挙げられ、1614年議会で本来禁止されている法務長官と庶民院議員兼任を特別に許されたが、1621年議会では一転してベーコンを追い落とす側に回った。かたや国王はベーコンの議会対策と協調案を取り上げず、1621年議会では保身に走り彼を見捨てたが、投獄された後は短期間釈放と罰金の分割払いなどを計らいベーコンに好意を示している。
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