改正図書館令の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 05:56 UTC 版)
改正図書館令によって、全国の図書館が帝国図書館-中央図書館-市町村及び私立図書館、学校図書館という構造が完成することとなり、更に同時に行われた公立図書館職員令改正によって奏任官・判任官の経験者あるいは帝国大学卒業者あるいは学士であれば、図書館学の知識を有しなくても図書館長・司書就任できることとされたために、図書館長は国策に忠実な官吏に対する一種の「天下り」先となっていった。更に帝国図書館長の松本は決して国家主義一本槍の人物ではなかったものの、日本図書館協会の有力者などとの対立から次第に文部省の支援に依存するところが大きくなり、結果的に図書館の文部省及び政府の国策への従属度を深める結果となった。 更に文部省からは国策に適った「優良図書」の奨励を、内務省(地方長官及び警察)及び軍部からは国策に不都合な社会主義や自由主義の資料の利用制限や禁止、没収、更には図書館利用者に対する公然たる調査までが行われるようになっていった。こうした空気の中で図書館員達の姿勢も国策に従って図書館の良化に努めるものへと変わっていくこととなる。1937年に日本図書館協会が出した「図書館社会教育調査報告」において、図書館員を「教育者」、大衆を自己教育の方法を知らない「被教育者」と捉えて、図書館員は大衆に対して図書館における読書活動を通じて思想善導を行う責務を有することを前面に掲げるに至ったのである。 その一方で、松本や日本図書館協会が期待した図書館網の構築と人員・設備の充実、特に改正図書館令の中核とも言える中央図書館制度の進展は大きく遅れることになる。当時、道府県立の図書館を持っていない地方においては、道府県立図書館の新設が望まれていたが、満州事変以後の戦時体制の強化と財政難によって、道府県内の有力な図書館を暫定的に中央図書館に充てる県も少なくは無かった。1939年の段階において東京府を含めた1府12県が正式な中央図書館を有していなかった。 また、日本図書館協会などが長年主張してきた使用料の徴収禁止(無料公開)は今回も行われず、第13条において(図書館)閲覧料及び附帯施設使用料として残った(もっとも、貧困層が社会主義に接近することを阻害するために使用料を廃止する意図が政府・文部省側には無かったとする見方もある)。更に社会教育のための附帯施設に対する解釈を巡って石川県立図書館長中田邦造と文部省成人教育課長松尾友雄との間に図書館附帯施設論争が勃発した。これは図書館は社会教育に関する全ての事業に参加して将来は図書館は社会教育館として発展的解消されるべきであるとする松尾の構想に対して、社会教育畑から図書館長になった中田が図書館本来の役割を逸脱した社会教育まで負う必要性はないと反論したものであった。松尾の主張は「私見」と断りつつも、実際には社会教育事業の統制と諸機関の統合によって、既存の図書館を否定して代わりに国策に基づいて国民を教化する施設である社会教育館を確立することで、欧米の公共図書館に替わる新たな施設を日本において創造しようとする文部省の思惑が垣間見えるものであった。 だが、このような国家の厳しい統制下にあっても図書館が開ける状態にある場合には、実際にはまだ良い方であった。1940年代に入ると、戦時体制の強化につれて図書館は「不要不急」の施設として接収されて軍事施設や軍需工場などに転用される例や空襲によって蔵書ごと焼かれる例などが相次いだ。そのため、太平洋戦争が終わった頃には全国のほとんどの図書館が壊滅的な打撃を受けることとなった。更に、戦後も食糧確保や戦災復興が優先されて図書館は「不要不急」として再建が後回しにされた。日本図書館協会の運動やGHQの働きかけにも関わらず図書館令に替わる図書館法の制定が日本国憲法の公布よりも更に3年も遅れた背景には、経済社会の実情に加えて、文部省のもとで国民教化機関として活動せざるを得なかった図書館に対する社会の批判が背景にあった。そして、新しい図書館法は改正図書館令に対する反省の上で成立することになったのである。
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