指導者への道(1921-1941)
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「野口源三郎」の記事における「指導者への道(1921-1941)」の解説
すでに松本中徒歩部や体協主催の夏期陸上競技練習会で指導実績を持っていた野口は、アントワープオリンピック以降、本格的に指導者人生を歩み始めた。1921年(大正10年)5月には第5回極東選手権(中国・上海)に日本選手団監督として随行、1922年(大正11年)5月には第6回極東選手権(大阪)で総務委員主事を務め、1924年(大正13年)にはパリオリンピック日本選手団監督を務め、イギリス・フランスの視察も行った。この間、1921年(大正10年)には体協主事に就任したほか、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)委員に初めて委嘱された。1922年(大正11年)には日本国内外の文献・審判例を参考にまとめた『最新陸上競技規則の解説』を出版、9版を重ね、1923年(大正12年)4月には『オリムピック陸上競技法』を出版、28版も出たベストセラーとなった。『オリムピック陸上競技法』がこれほどまでに重版したのは豊富な写真とともに初心者にも分かりやすい陸上競技の解説が付されていたことに加え、文検の学習参考書として受検者が購入したこと、この本を携えて日本各地で野口が陸上競技に関する講演会や実技指導を行ったことが背景にある。野口の講習会には、後に日本人初のオリンピック金メダリストとなる織田幹雄の姿があり、ここで野口から褒められた織田は陸上競技に傾倒するようになった。新潟県刈羽郡では野口の講演要旨を『陸上競技の実際』と題した小冊子にまとめ、福井県師範学校(現・福井大学)体育研究室では野口の著書を抄録して『オリムピツク陸上競技法』を発行、教科書に採用した。 1925年(大正14年)4月1日、体協主事を退任、4月25日から東京高師教授として勤務し始め、高等官6等に叙せられた。同年10月には東京高師陸上競技部(現・筑波大学陸上競技部)の部長に就任した。この頃には東京高師体育科で派閥争いを繰り広げた嘉納治五郎・可児徳・永井道明・三橋喜久雄は退職しており、教師陣は大谷武一、二宮文右衛門、宮下丑太郎、佐々木等ら体育を専攻した東京高師出身者のみで占められていた。とは言え、まだ学校体育の中心は体操でありスポーツの地位は低いままであったので、野口はスポーツ畑の代表者として地位向上に励んだ。1926年(大正15年)には体育研究所技師を兼任し、『新制陸上競技規則解説』を出版、全日本陸上競技連盟(現・日本陸上競技連盟)から『国際陸上競技規則』(1928年〔昭和3年〕)が発刊されるまでに3版を重ね、陸上競技運営のバイブルとして陸上競技関係者に重宝された。この頃、二階堂トクヨが創設したばかりの二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)でも、講師として教鞭を執っていた。 1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックには陸上競技の選出役員として参加し、ドイツの体育視察と国際陸上競技連盟(IAAF)総会への出席を兼ねた。アムステルダム五輪では織田幹雄が三段跳で金メダル、人見絹枝が800mで銀メダルを獲得するなど活躍し、野口は出場した17人の日本人陸上競技選手の競技状況を『第九回オリンピック陸上競技の研究』にまとめた。同書はオリンピックに初めて採用された女子の競技についての詳細を掲載し、IAAFで議論された競技規則改正の内容をも盛り込み、最新情報を日本にもたらした。 1930年(昭和5年)、東京高師陸上競技部はチーム名を東京文理科大学陸上競技部に改め、引き続き野口が部長として率いた。1931年(昭和6年)、文理大は日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)で念願の初優勝を成し遂げ、1941年(昭和16年)に中止となるまで優勝6回、準優勝3回を達成し、黄金期を迎えた。学外でも1930年(昭和10年)3月に大日本体育協会史編纂委員長に就任して協会史をまとめ上げたほか、1937年(昭和12年)に1940年東京オリンピックを見据えた日本陸上競技ヘッドコーチ、1939年(昭和14年)に全日本陸上競技連盟専務理事と大日本体育協会理事に着任している。野口はヘッドコーチとして日本代表候補を選定、指導陣の組織、合宿の開催、アメリカから選手を招いて試合を行うなど着々と準備していたが、オリンピックの開催返上のため、すべて中断となった。
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