柔道指導者への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 07:44 UTC 版)
長野県篠ノ井町(現・長野市篠ノ井)の生まれ。長野県屋代高校時代に本格的に柔道を始めて、3年生の時に軽量級の県王者となった。上京して東京教育大学体育学部武道学科に進学し、得意技の背負投を武器に同大では3年生から団体戦のレギュラーにもなって全日本学生優勝大会等の主要大会に出場したほか、個人戦では3年生で東京学生選手権70kg級で3位、主将となった4年次には準優勝を果たしている。1971年3月に大学を卒業後は千葉市の県立千葉工業高校で教員となり、同校柔道部にて指導を行う傍ら週末の2日間は母校・東京教育大でコーチを行う生活を3年間続けた。当時の柳沢の夢は柔道専門家ではなく高校の校長になる事で、周囲の教員仲間にもそれを公言していたという。 しかし東京教育大がつくば市に移転して筑波大学となると、柳沢は1974年に同大に移って技官(準研究員)に身を転じ、柔道部のコーチを任ぜられた。後に山口香や楢崎教子、谷本歩実ら女子の世界王者を輩出し名門として名を馳せる事となる筑波大学だが、当時は女子部員はおらず男子部員のみであった。3年間筑波大学で柔道部の土台を築き上げた後に電気通信大学へ転勤となり保健体育科の教授に着任、同時に講道館国際部と女子部の指導員も務めた。この頃、海外では女子の柔道人口が増え始めて国際柔道連盟が女子の世界選手権開催を決定し、本家の日本としてもこれに呼応する形で1979年に全日本柔道連盟が女子強化に本腰を入れ始めると、当時ブラジルに派遣されて半年間ナショナルチームの指導を行っていた柳沢は帰国早々に国際部指導員の大沢慶己から女子の強化コーチを依頼された。当時の柳沢は31歳で指導員の中では一番若く、また体育専攻学部の無い電気通信大では時間を作りやすいであろう事が表向きの理由だったが、実際には「誰も引き受ける人間がいないから」であったという。突然の打診に柳沢も「面食らった」と述べている。 否応無しに女子強化コーチとなった柳沢だったが、当時の女子柔道の地位は極めて低く、多くの男性コーチは肩書に女子コーチと付記されるのすら嫌がっていた。事実、1983年の第1回福岡国際女子選手権のパンフレットでも“女子強化コーチ”は柳沢のみで、他の女子コーチ達は“特別強化コーチ”の肩書であった。当時の日本で柔道を修行する女性は競技よりも行儀見習いに主眼を置く風潮があり、連続乱取をするスタミナなど望むべくもなく、時には女子道場生が座礼の時に「先生、ご機嫌よろしゅうございます」と言えば、女性の指導員も「ご機嫌よう」と返す有様だったという。柳沢は「私も“ご機嫌よう”と言うわけにもいかないので、“おぉ…”なんて曖昧な返事をしていた」と述懐している。永らく国内で女子の試合は禁止されていた事もあり、1978年に開催された日本で最初の女子公式大会となる全日本選抜体重別選手権へのエントリーは予選を含めて全国でわずか128人、下は中学生から上は37歳の主婦まで出場するという時代であった。行儀見習いから世界と戦えるレベルにまで鍛えるべく、柳沢はまずバレーボールや体操の指導者に精力的に相談し、また指導法や練習法についての文献を読み漁った。女子の強化選手達には練習や試合の記録と反省を自らレポートに残して自分の柔道を深く考えさせるよう導き、厳しい練習と緊密なコミュニケーションを以って、女子柔道は柳沢の元で確かな一歩を歩み始めた。
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