広小路学舎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:06 UTC 版)
「京都法政学校#校地の変遷と継承」も参照 広小路学舎は京都法政学校設立当初の1901年(明治34年)に設置された京都市上京区広小路通河原町西入にあったキャンパス。当初の敷地面積は2,200m2で、衣笠キャンパスに全面移転する1981年(昭和56年)頃の総面積は40,000m2であった。校舎の一部(尽心館、存心館、養性館)は『孟子』尽心篇・首章の次の一文に拠って命名された。選者は立命館長・中川小十郎の委託を受けた講師の鷹取田一郎であった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「其の心を尽す(尽其心)者は其の性を知るなり。其の性を知らば則ち天を知らん。其の心を存し(存其心)其の性を養う(養其性)は、天に事(つか)う所以なり。妖寿たがわず身を修めて以て之をまつは、命を立つる所以なり。」 全盛期には学園本部のほか、法学部、経済学部、文学部、経営学部、産業社会学部と各二部と各研究科が、狭隘な土地に所狭しと立ち並んでいた。学園の拡大政策のもと衣笠キャンパスへの全学統合が計画された。 1965年(昭和40年)の経済・経営両学部移転を皮切りに順次各学部や研究科が移転し、1981年(昭和56年)には最後に残った法学部が移転し全学が衣笠に移転完了し、「広小路学舎閉校祭典」が開催された。広小路学舎は、1981年(昭和56年)3月末日をもって「京都府土地開発公社」に売却された。現在跡地には「立命館学園発祥の地」記念碑が建っているが、大部分は隣接する京都府立医科大学図書館として活用されている。「広小路学舎閉校祭典」で当時の総長・天野和夫は次のように挨拶している。 「広小路学舎は草創期からの学び舎で、多くの卒業生が学び、役員、教職員、学生が守ってきた。この地を離れるにあたって寂寥の感が深い。この学舎はたんに教育、研究の場であっただけでなく、御所の東という立地条件に恵まれ、市民にもなじまれた。これから衣笠で八〇年代の学園の発展に向け飛び立とうするが、広小路学舎の歴史に学び、諸先輩の足跡を教訓としたい(『京都新聞』一九八一年二月六日付)。」 広小路学舎にあった施設は以下の通りである。 養性館(1926年竣工) - 旧立命館文庫。中川会館ができるまでは本部事務室も入っていた。1953年に建物を90度回転させ「興学館」と改称 尽心館(1927年竣工) - 戦前は大学予科校舎。戦後はII部事務室などに使用 存心館(1928年竣工) - 1954年4階建てに増築。法学部、II部、会計課、長期計画事業事務局 入徳門(養性館と存心館・尽心館とを結ぶ地下道) 国清殿(1932年竣工) - 旧・中央講堂 中川会館(1936年竣工) - 学園本部 第一新館(1948年竣工) - 学生会館 第二新館(1949年竣工) - 文学部 第三新館(1950年竣工) - 大学院研究室・教室、図書大閲覧室、人文科学研究所、学園ホール 鴨川運動場(1950年開設) 立命会館(1952年竣工) - 広小路学生会館、食堂 研心館(1953年竣工) - 第四新館。大講堂、大教室、図書大閲覧室、法学部・経済学部行政施設、学生課、就職課、学友会など 清心館(1957年竣工) - 文学部、文学部事務室、大食堂、診療所 尚学館(1957年竣工) - 教員研究棟 敬学館(1958年竣工) - 会議室兼図書室 体育館(1958年竣工) - 現・京都府立医科大学体育館 有心館(1961年竣工) - 外国語教育用小教室 恒心館(1962年竣工) - 経営学部学舎、1965年から産業社会学部学舎。現在は世界救世教いづのめ教団の京都救世会館
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