西園寺公望との関係とは? わかりやすく解説

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西園寺公望との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:06 UTC 版)

立命館大学」の記事における「西園寺公望との関係」の解説

私塾立命館閉鎖たいそう残念に思っていた西園寺公望は、同私塾復興を誓う。その意志継いだのが西園寺秘書官中川小十郎だった。自分意志継いだ中川西園寺協力惜しまず、自らの政治的人脈生かし様々な形での支援行った西園寺の庶弟末弘威麿学園幹事就任同じく実弟住友財閥当主徳大寺隆麿住友友純)は大口の寄付行った。また西園寺家家紋である「左三つ巴」の旗を立命館学園使用することを許可しており実際に使用されていた。また大学昇格必要な書籍寄付するなど、物理的な面でも支援行っている。また、愛新覚羅溥儀立命館巨額寄付行っており(衣笠キャンパス溥儀寄付により作られた)、これも西園寺人脈よるものである。 中川が「立命館」の名称を用いることを西園寺申し出た際には『立命館』の名称と精神継承立命館再興)を大層喜び、『立命館由緒』の大扁額与えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神継承せる貴学」と現在の立命館大学のことを述べており、彼の作った立命館再興し受け継がれている事を喜んだ原文:「明治ノ初メニ於イテ余ガ建設セル立命館ノ名称ト精神継承セル貴学益々発展シテ国家進運貢献スルコト大ナルベキヲ祈ル」(1935年昭和10年))。 西園寺専門学校令によって創立した京都法政大学が、大学令による大学への昇格条件を満たすために多数書籍寄付している。これらの書籍は、現在も「西園寺文庫」として保存されている。なお、1回目寄贈1925年5月行われ英仏187であったその後1930年10月16日和漢書300冊、1938年6月には西園寺家伝来和綴本739部881冊の寄贈為された。この和綴書には、宮中儀式有職故実関係、改元記録和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして1940年5月行われた最後寄贈和漢書6,671冊にもおよび、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴である。 1932年83になった西園寺人生最後京都訪問を行う。その際京都市上京区にある立命館大学広小路学舎訪問先選んだ9月22日の朝、広小路学舎訪れた西園寺は、校舎ホール飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている。 西園寺私塾との間に学校組織としての連続性はないものの、こうした状況から西園寺没した1940年財団法人立命館は、西園寺を「学祖」と取り決めた。そのため、西園寺家との関係は、学校法人立命館のみならず立命館大学とも続いており、大学行事西園寺家人々出席している。

※この「西園寺公望との関係」の解説は、「立命館大学」の解説の一部です。
「西園寺公望との関係」を含む「立命館大学」の記事については、「立命館大学」の概要を参照ください。

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