西園寺公望襲撃の計画と取りやめ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:22 UTC 版)
「二・二六事件」の記事における「西園寺公望襲撃の計画と取りやめ」の解説
西園寺襲撃は18日夜の栗原安秀中尉宅での会合で決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。 対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。 21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。 23日には栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。 24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。 西園寺がなぜか事前に事件の起こることを知って、静岡県警察部長官舎に避難していたという説があるが、それは全くのデマである。 事件発生後、午前6時40分頃、木戸幸一が興津にある西園寺邸に電話をかけた際、「一堂未だお休み中」と女中が返事をしているし、また、官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと、当時の静岡県警察部長であった橋本清吉が手記にそのときの詳細を書いている。
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