平成期 - プロレス人気の低迷と団体乱立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:25 UTC 版)
「プロレス」の記事における「平成期 - プロレス人気の低迷と団体乱立」の解説
1989年4月、全日本プロレスを解雇されて引退状態であった元国際プロレス出身プロレスラーが中心となり、パイオニア戦志が旗揚げ。日本初のインディー団体の設立事例となる。10月にはジャパン女子を追われていた大仁田厚がFMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収めてインディー団体というカテゴリーを確立。このプロレス団体は同時に「ハードコア・レスリング」の世界的なパイオニアという側面を持ってもいた。1990年1月には大仁田と同じくジャパン女子プロレスを追われていた浜田により、ユニバーサル・プロレスリング設立。日本にメキシコのルチャリブレスタイルが導入される嚆矢となった。 1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされてプロレス団体の乱立の時代を迎えた。日本のプロレス界に特に大きな影響を残したのは、1990年にメガネスーパーが出資して、新日本プロレス、全日本プロレスから多くのプロレスラーを引き抜いて設立されたSWSである。SWSは1992年初頭に、WARをはじめ複数の派生団体に分裂する形で崩壊していく事になった。ユニバーサルを退団したザ・グレート・サスケが1992年に設立した、みちのくプロレスは東北地方を主戦域として活動する地域密着型のインディー団体として成功を納めて、1993年に設立された高杉正彦のIWA湘南と鶴見五郎のIWA格闘志塾は神奈川県内の特定市域のみを活動地域とする手法で細く長く活動を継続した。 この頃になると乱立するインディー団体への主力選手の離散と同時に、馬場、猪木が第一線を退いた事もありプロレス人気にも翳りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動してジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため外国人プロレスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人プロレスラー同士の闘いに重点を置くようになった。新日本プロレスでは闘魂三銃士(蝶野正洋、武藤敬司、橋本真也)、全日本プロレスではプロレス四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)が台頭して後にまで業界を牽引してゆく。一方、第2次UWFはUWFインターナショナル、プロフェッショナルレスリング藤原組、リングスに分裂(藤原組はその後さらにパンクラス、格闘探偵団バトラーツに分裂)して細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1、PRIDEなど総合格闘技が台頭して、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが準備期間の短さなどから結果を残したプロレスラーは少なく、人気低迷に拍車をかけた。一方、UWFインターナショナル、キングダム出身の桜庭和志や新日本プロレス出身の藤田和之など、総合格闘技のリングで大変優秀な戦績を収めた者もいた。 1997年にはJWP女子プロレスのプラム麻里子が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めてのリング禍であった。老舗の全日本女子も、この年に最初の経営破綻を引き起こして、多くの女子プロレスラーが他団体に流出して衰退していった。 1999年、元来非営利運営を主としていた社会人プロレス出身者により、零細ながらも商業活動を行う歴としたインディー団体である YMBプロモーション が設立される。1970年代以来の社会人プロレスの伝統に則り、煎餅布団の上にブルーシートを敷いた簡易リングを用いて数十人から数人程度の観客を前に試合を行う興行形態 は当時のプロレスマスコミの間では未知のものであった。また、それまでのインディー団体はメジャー団体からスピンアウトした関係者や、より大規模なインディー団体が分裂していく過程で設立されたものが多かった事から、規模の大小はあれどもその興行領域は全国区を標榜している事が多く、単一県内など特定の地域内のみで興行を行うインディー団体は(先述のIWA格闘志塾などの先例を除けば)極めて珍しいものであった為、YMBは週刊プロレスにより、ローカルインディー団体として初めて分類される事となった。なお、ローカルインディー団体の中でも更に活動地域が狭く、道場などのリングが常設されている特定の場所でのみ興行を行うプロレス団体は「インディーの中のインディー」を意味する「どインディー」とも呼ばれている。こうしたプロレス団体の初の事例は、1993年に横浜市鶴見区の焼肉屋が主体となり、常設されたリングの周囲に様々な料理を提供する屋台街が形成され、屋台の来店客にプロレスやキックボクシング などの格闘技の試合を提供した屋台村プロレス(正式名称はプロレス屋台村15番街ヨンドン)であるとされている。屋台村プロレスは1996年頃には中心となった焼肉屋の閉店に伴い解散したが、常設リングを持つ運営主体に様々なローカルインディー団体がプロレスラーを派遣して興行を成立させる手法は、その後、ローカルインディー団体の多くに引き継がれた。
※この「平成期 - プロレス人気の低迷と団体乱立」の解説は、「プロレス」の解説の一部です。
「平成期 - プロレス人気の低迷と団体乱立」を含む「プロレス」の記事については、「プロレス」の概要を参照ください。
- 平成期 - プロレス人気の低迷と団体乱立のページへのリンク