富山市表町において
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「富山県立図書館」の記事における「富山市表町において」の解説
1947年(昭和22年)4月1日、紀元二千六百年記念富山県立図書館は富山県立図書館と改称された。このころ館長に着任した平野良作は文化国家樹立のためには文化的象徴たる図書館を富山県庁に対峙させることが重要であると考え、県庁前の武徳殿跡(富山市表町)に新館舎を建設することを中島正文砺波図書館協会会長と共に館哲二富山県知事に請願している。かくて1948年(昭和23年)4月30日、富山市表町に新館舎建設の起工式を挙行して、同年9月24日には第一期工事を竣成し、同所において図書館に先立ちフィルム・ライブラリーを開設した。同年10月5日からは事務所を富山県立神通中学校から移転し、1949年(昭和24年)6月20日に第二期工事の完了をみたのち、同年9月10日新館舎において開館式を挙行した。ただし、第三期工事の完了したのは開館式の後の1950年(昭和25年)3月31日のことであった。また、同年10月25日からは開架式の図書館となった。 富山県立神通中学校内の仮書庫の蔵書は、1949年(昭和24年)7月25日に移転されたが、早月加積等に疎開された蔵書のすべてを回収する作業にはこれより4年を要することとなった。また、旧富山市立図書館の蔵書と富山県立図書館の蔵書では図書分類の方式が異なっており、全蔵書の整理作業にも2年3箇月を費やすこととなった。その蔵書整理作業の完了と同時に富山県立図書館においては郷土資料の目録製作作業に着手し、1953年(昭和28年)11月4日に『志田文庫目録』を刊行したのを皮切りに、1955年(昭和30年)4月29日には『富山県郷土資料分類表』、1957年(昭和32年)6月6日には『立山黒部文献目録』、1962年(昭和37年)6月4日には『富山県郷土資料総合目録』を刊行している。また、郷土資料目録の制作作業が一段落してからは、各種重要資料のマイクロフィルム作成作業に着手し、1967年(昭和42年)5月11日に加越能文庫のマイクロフィルムを完成させ、同年6月21日からは明治以降の郷土新聞の撮影に着手した。 また、1950年(昭和25年)10月6日からは移動図書館たる「移動公民館」を発足させた。この自動車文庫の発足は全国で千葉に次いで2番目のことであって、当初は一台の車を以て県内各地を巡廻していたが、翌1951年(昭和26年)7月4日からは新たに2台の自動車を導入した。自動車内には図書のほかに映写機や幻燈機を積載し、社会教育主事や図書係が同乗して図書の貸借と共に、映画や紙芝居の上映、あるいは座談会や講演会を行った。特に農山漁村の人々は、子供も大人もこの移動公民館が来ることを心待ちにしていたという。 図書館内部においても逐次施設の充実が行われており、1952年(昭和27年)5月23日には参考室を開設して、便覧や辞書類を備えて利用者の調査質問に応ずる態勢を整えた。1958年(昭和33年)4月4日には産業資料室、同年8月21日には国立国会図書館北陸地区PBリポートセンターが開設されている。PBリポートとは主として連合軍が接収した化学工業資料であって、折から政府は科学産業振興のためにその設置を全国6箇所に計画していたのであるが、これを知った木下秀夫富山県立図書館長は富山県図書館協会や商工会、農協中央会等と共に吉田実富山県知事に陳情し、これが容れられて富山県立図書館内にそのリポートセンターが開設される運びとなったのである。この各種産業資料の利用は大阪と名古屋に次ぐ実績をあげ、産業資料室には3台の複写機を設備して利用者の需要に応じたが、その申込数は増加の一途を辿ったという。この産業資料の導入は、富山県立図書館が各種参考資料の提供を主たる使命とする参考館的運営に主眼を移す契機ともなった。
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