学術分野での活動
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1945年(1946年とも)に京城大学(ソウル大学校の前身)文理科大学教授に就任。1947年にソウル大学文理科大学社会学科の創設を主導、主任教授となり、死去まで在任した。大学では国史・近代史のほか、社会学史、韓国社会論などの講義にあたった。1955年にソウル大学から文学博士号を授与された。 歴史学分野においては、高麗末期から朝鮮王朝建国期・前期の政治・社会の研究を行った。朝鮮王朝の庶子差別をめぐる「서얼차대의 연원에 대한 일문제(庶孽差待の淵源に関する一問題)」を1934年に『震檀学報』創刊号で発表したのを皮切りとして、「삼봉인물고(三峰人物考)」、「이조 태조의 사전개혁운동과 건국 후의 실적(李朝太祖の私田改革運動と建国後の実績)」、「위화도회군고(威化島回軍考)」、「우창비왕설에 취하여(禑昌非王説について)」、「고려말 이조초에 있어서의 이성계 일파의 전제개혁운동과 그 실적(高麗末李朝初における李成桂一派の田制改革運動とその実績)」、「재가금지습속의 유래에 대한 연구(再嫁禁止習俗の由来に関する研究)」などの論文がある。歴史学分野での主著には『조선 문화사 연구 논고(朝鮮文化史研究論考)』、『이조 건국의 연구(李朝建国の研究)』など。また震檀学会編纂の『韓国史』近世前期編・近世後期編の編集を担当した。 論文のうち「禑昌非王説について」は、高麗末期の禑王と昌王が王族の血を引いていないという主張(朝鮮王朝が編纂した正史『高麗史』では、高麗末期に権力を揮った僧辛旽の子や孫であるとしている)の虚構性を論証し、朝鮮王朝を建国した勢力が流布したものであると結論した。「三峰人物考」では鄭道伝(三峰はその号)が「逆賊」とされたのは、彼自身の誤りもあるものの、政敵によって一方的な非難を浴び否定的な面だけが強調されてきたためと主張し、話題となった。 社会学分野では、韓国での社会学の発展に寄与し、大学の講義と教養誌・学術誌を通じて社会に普及した。1957年韓国社会学会の創立に参加し、会長を2期務めた。社会学を研究するために基礎資料として統計調査とアンケートを採用し、統計学にも関心を示した。「질서와 진보(秩序と進歩)」、「중간계급의 성격(中間階級の性格)」などの論文があり、欧米の社会学の紹介のためロベルト・ミヒェルスの『政治社会学』などを翻訳出版した。彼の社会学は、主に欧米の古典的な社会学理論に基づき、その理論を韓国社会に適用して理解しようと努力した。社会調査にも関心を傾け、農村・都市・社会階層などに関するいくつかの調査研究を行った。この分野では黄海岸の島々に関する調査報告書である『서해도서(西海島嶼)』を執筆している。韓国社会史研究の先駆者と評価される。 国家公務員採用試験の出題委員として国史・文学の分野を担当したほか、中央公務員訓練院顧問教授、大韓民国学術院(朝鮮語版)会員、教授資格審査委員会委員、国史編纂委員会委員、3・1文化賞審議委員会委員、東方文化研究所委員など多くの公職・社会団体の役職を務めた。1961年6月には5・16軍事政変以降軍政組織再建国民運動本部中央委員会の委員の一人として委嘱された。 作家・随筆家としても活動した。旅行好きであり、若いころから国内の名勝旧跡や世界各地をめぐった紀行文を残した。考古美術の面にも造詣があり、ソウル大学校博物館長、国宝・旧跡・名勝・天然記念物保存委員、国立博物館審議委員などを歴任した。
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