孝明天皇の御宸翰
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将軍徳川家茂は和宮降嫁の御祝言上のため上洛した。これに先立ち過激浪士たちは、これを妨ぐために伊勢奉幣使派遣を画策するが、容保はこれを事前に察知。未然に防ぐ。 3月10日、浪士組のうちの京壬生村に残留していた者達の差配を幕府より命じられ、近藤勇、芹沢鴨ら17名の浪士から会津藩へ嘆願書が提出される。12日には彼らを「会津藩お預かり」とする(壬生浪士、後の新選組)。 3月11日、過激派の企画により加茂社行幸が行われるが、容保、厳重な警戒により事なきを得る。家茂も行列に参加し、孝明天皇は将軍の頼もしさを語ったと容保は聞き、公武一和の成果に喜んだ。 3月17日、この頃イギリスが横浜来航し、生麦事件や英国公使館焼き討ち事件の賠償金を幕府に請求、応答によっては戦端が開かれそうな問題が発生する。この混乱を理由に将軍家は江戸へ帰りたがり、朝廷へ帰国を奉請した。これに容保は大いに驚き引き止めた。「横浜の問題については、いよいよの際には代わりに後見職・総裁職に東下して頂き、それ以上に公武一和が重要であり将軍は京を離れるべきではない」として「天朝より御一和相整い、人心帰嚮するまでは長く御滞京あそばされ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ、神州の治安の基本相立ち候よう。強いて御東帰あそばされては天朝に対しても御不都合の儀、深く心痛仕る儀に御座候。下は天下の人心を失い、救うべからざる事態に至るであろう」と説いている。 賠償金問題に関して、幕府は混乱し決定できぬ状況に陥り、慶喜は「今となっては攘夷と決定したので一文も払う必要なし」としたが、容保は「予はむしろ因循の汚名を着ても、外国に信義を失うには忍びない。そもそも生麦のことはわが方に非があり相手はこれを責めているので理にかなったことである。攘夷にしても名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに要求を認め償い、しかる後に攘夷を決行すべきである」と、その由を朝廷に上奏した。 この夜、将軍家を京に引留める勅旨が下ったが、その内容にあった「浪花港に英艦を引き入れ戦端を開き…」との部分に容保は不審に思い怪しんだ。のちに天皇自身から真勅が下り「浪花は帝都の要港。万一にも無謀な戦争はしないように。先の勅旨は朕の知らざるところ」と、先の勅旨が攘夷派の起こした偽勅であったことが判明した。また真勅には「万事幕府に委任する。なお滞京し諸侯を指揮するように。諸藩にもその指揮を受くべきと命ずる。公武一和は臆兆の安堵の基である。朕は特にこれに意を注ぐ」とあり、天皇は過激攘夷派を忌み嫌い憂いた。 4月11日、過激派の公卿の計画により石清水八幡宮への行幸が行われ、この時天皇を奪い将軍を暗殺するという噂が漏れたが、これもまた警戒を厳重にし事なきを得る。 6月25日、京都守護職に江戸へ下るようにと勅命が下る。しかしこれは、容保と会津藩を京から遠ざけるための過激派による偽勅であった。容保は八方に家臣を出したが状況をつかめず、無駄に終わる。会津としては「今は公武一和の途上である。なぜこのような勅命が」と困惑した。孝明天皇はこの事態を大いに憂慮し決心する。宮廷の慣例を破る手段であるが、前関白近衛忠煕を通じ容保に直接手紙を届けさせた。これが天皇直筆の御宸翰である。容保は衣冠束帯で文箱をおしいただき、内容には「今、守護職を東下させることは朕の少しも欲しないところで、驕狂の者がなした偽勅であり、これが真勅である。今後も彼らは偽勅を発するであろうから真偽を察識せよ。朕はもっとも会津を頼りにしている」とあり、容保は君恩の深さに哭きつづけ頭を上げることが出来なかった。 7月30日、建春門外にて藩兵の馬揃え(軍隊操練)を天覧に供す。孝明天皇は非常に楽しみにしていたが、3日ほど雨が続き、はじめ過激派公卿は「雨天順延」の命を出しておきながら急に叡覧の命を出して会津の狼狽や不備をさらし、容保に恥辱を与えようとしたが、会津は準備一つもかけることなく大軍の操練をした。天皇はこれを褒めたため(「いささかの差支えもなく、かねて武備充実、行届き候段、実に頼もしく」との恩賜)、8月5日、再度天覧に供した。終わったあと容保は天皇の御車寄に召され叡感の詔を賜る。京都守護職時代の容保の写真はこの日のものである。天皇より賜わった緋の御衣にて作られた陣羽織を着ている。 この間、江戸へ帰りたがる将軍家やその首脳陣を引き留めるために家臣を奔走させている。容保は「国内を一つにまとめるのが先決。さすれば外交方針が一定し人心の不安は自然と鎮静することができる。目先の横浜問題は枝葉のことである」と考えたが、幕府には伝わらず、大いに困らされている。容保はこの先も京の政局において、伝わらぬ幕府と過激な攘夷派とに困らされ、悩まされ続けていくことになる。のちに家臣山川浩は当時のことを「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほどであった」と書いている。
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