孝明天皇の御宸翰とは? わかりやすく解説

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孝明天皇の御宸翰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「孝明天皇の御宸翰」の解説

将軍徳川家茂和宮降嫁御祝言上のため上洛した。これに先立ち過激浪士たちは、これを妨ぐために伊勢奉幣使派遣画策するが、容保はこれを事前に察知未然に防ぐ3月10日浪士組のうちの京壬生村残留していた者達の差配幕府より命じられ近藤勇芹沢鴨17名の浪士から会津藩嘆願書提出される12日には彼らを「会津藩お預かり」とする(壬生浪士、後の新選組)。 3月11日過激派企画により加茂社行幸が行われるが、容保、厳重な警戒により事なきを得る家茂行列参加し孝明天皇将軍頼もしさ語ったと容保は聞き公武一和成果喜んだ3月17日この頃イギリス横浜来航し生麦事件英国公使館焼き討ち事件賠償金幕府請求応答によっては戦端開かれそうな問題発生する。この混乱理由将軍家江戸へ帰りたがり、朝廷帰国を奉請した。これに容保は大い驚き引き止めた。「横浜問題については、いよいよの際には代わりに後見職・総裁職東下して頂きそれ以上公武一和が重要であり将軍は京を離れるべきではない」として「天朝より御一和整い人心帰嚮するまでは長く滞京あそばされ、上は宸襟安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ神州治安基本相立ち候よう。強いて御東あそばされては天朝に対しても御不都合の儀、深く心痛仕る儀に御座候。下は天下人心失い、救うべからざる事態に至るであろう」と説いている。 賠償金問題に関して幕府混乱し決定できぬ状況に陥り、慶喜は「今となっては攘夷決定したので一文も払う必要なし」としたが、容保は「予はむしろ因循汚名着ても、外国信義を失うには忍びないそもそも生麦のことはわが方に非があり相手はこれを責めているので理にかなったことである。攘夷にしても名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに要求認め償いしかる後攘夷決行すべきである」と、その由を朝廷上奏した。 この夜、将軍家を京に引留める勅旨下ったが、その内容にあった浪花港に英艦を引き入れ戦端開き…」との部分に容保は不審思い怪しんだ。のちに天皇自身から真勅が下り浪花帝都要港万一にも無謀な戦争はしないように。先の勅旨は朕の知らざるところ」と、先の勅旨攘夷派の起こした偽勅であったことが判明した。また真勅には「万事幕府委任する。なお滞京諸侯指揮するように。諸藩にもその指揮受くべきと命ずる。公武一和は臆兆の安堵の基である。朕は特にこれに意を注ぐ」とあり、天皇過激攘夷派を忌み嫌い憂いた。 4月11日過激派公卿計画により石清水八幡宮への行幸が行われ、この時天皇奪い将軍暗殺するという噂が漏れたが、これもまた警戒厳重に事なきを得る6月25日京都守護職江戸へ下るようにと勅命が下る。しかしこれは、容保と会津藩を京から遠ざけるための過激派による偽勅であった。容保は八方家臣出した状況をつかめず、無駄に終わる。会津としては「今は公武一和途上である。なぜこのような勅命が」と困惑した孝明天皇はこの事態大い憂慮し決心する宮廷慣例を破る手段であるが、前関白近衛忠煕通じ容保に直接手紙届けさせた。これが天皇直筆御宸翰である。容保は衣冠束帯文箱おしいただき、内容には「今、守護職東下させることは朕の少しも欲しないところで、驕狂の者がなした偽勅であり、これが真勅である。今後も彼らは偽勅を発するであろうから真偽を察識せよ。朕はもっとも会津頼りにしている」とあり、容保は君恩深さに哭きつづけ頭を上げることが出来なかった。 7月30日建春門外にて藩兵の馬揃え軍隊操練)を天覧供す孝明天皇は非常に楽しみにしていたが、3日ほど続き、はじめ過激派公卿は「雨天順延」の命を出しておきながら急に叡覧の命を出して会津狼狽不備をさらし、容保に恥辱与えようとしたが、会津準備一つもかけることなく大軍操練をした。天皇はこれを褒めたため(「いささか差支えもなく、かねて武備充実行届き候段、実に頼もしく」との恩賜)、8月5日再度天覧供した終わったあと容保は天皇御車寄に召され叡感の詔を賜る京都守護職時代の容保の写真はこの日のものである天皇より賜わった緋の御衣にて作られ陣羽織着ている。 この間江戸へ帰りたがる将軍家やその首脳陣引き留めるために家臣奔走させている。容保は「国内一つにまとめるのが先決さすれば外交方針一定し人心の不安は自然と鎮静することができる。目先の横浜問題枝葉のことである」と考えたが、幕府には伝わらず、大いに困らされている。容保はこの先も京の政局において、伝わらぬ幕府過激な攘夷派とに困らされ、悩まされ続けていくことになる。のちに家臣山川浩当時のことを「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件双肩にかかるありさまで、禁中二条城・各屋敷奔走し、その苦心筆舌あらわし得ないほどであったと書いている。

※この「孝明天皇の御宸翰」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「孝明天皇の御宸翰」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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