孝明天皇の立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:13 UTC 版)
当時の主要な政治勢力はいずれも「攘夷」をいかにすすめるかを最大の大義名分としており、天皇は最大の大義名分を持つ対象の意味で「玉(ぎょく)」と呼ばれ、対立の激化の原因にもなっていた。孝明天皇自身は通商条約を容認しない攘夷論者であったが、即刻外国船を打ち払うほど過激ではなく、内政に関しては大政委任論をもって幕府の統治を強く支持していた。しかし宮中における破約攘夷派の影響力は強く、孝明天皇自身の意志が通る状況ではなかった。実際、文久3年3月5日に将軍家茂が上洛した際にも、大政委任を奏上する家茂に対し天皇はそれを許可した上で、攘夷についてはなお努力するようにと回答している。ところがこの言葉を勅書とするよう慶喜が要請すると、宮中に勢力を持っていた破約攘夷派の影響で、大政委任は確認せず、攘夷のみについて委任するという勅書が作成された。
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