多忙な人気作家へ
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1947年(昭和22年)1月に独特の歴史観による歴史小説「道鏡」を『改造』に発表。道鏡と孝謙天皇の恋の道程を描いた作品である。戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられたが、内容はむしろ女帝としての孝謙天皇を描いたものだった。同月には、「恋をしに行く」(「女体」の続編)を『新潮』、「私は海を抱きしめてゐたい」を『婦人画報』、徳川家康を題材にした歴史小説「家康」を『新世代』、自伝小説「風と光と二十の私と」を『文藝』に発表。20代の青春期の精神遍歴を描いた小説は、3月の「二十七歳」もあり、それに続く連作的な「三十歳」(翌年5月発表)では当時新進女流作家であった矢田津世子との恋愛について描かれ、安吾自身も年代記の眼目としている。人気作家となった安吾は、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれて、時代の寵児となり注目される反面、「痴情作家」とレッテルを貼られることもあった。 2月、随筆「特攻隊に捧ぐ」を『ホープ』に寄稿したが、GHQの検閲で全文削除となり未発表作となる。同月には初の新聞連載小説「花妖」を、岡本太郎の挿絵で『東京新聞』に連載開始するが、新聞小説としては型破りであったために読者の評判は悪く連載中断となってしまい5月で未完となった。6月には虚無の極北、絶対の孤独を凝視した「桜の森の満開の下」を『肉体』、自伝小説「暗い青春」を『潮流』、評論「教祖の文学」を『新潮』、ファルス的な連作「金銭無情」「失恋難」「夜の王様」「王様失脚」(のちに長編『金銭無情』)を『別冊文藝春秋』他各誌に発表するなど旺盛な活動を見せた。作品の反響は大きく執筆のペースは大幅に増え、次々と作品を発表し、ヒロポンを服用しながら4日間一睡もしないこともあった。安吾には強気の反面、神経の弱い面が多分にあったという。 9月からは推理小説「不連続殺人事件」を雑誌『日本小説』に連載し始める(挿絵は高野三三男)。作中に登場する巨勢博士は短編「選挙殺人事件」(1953年)、「正午の殺人」(1953年)でも活躍させている。安吾は少年時代から推理小説、探偵小説を愛好し、推理作家としてはアガサ・クリスティを最高の作家として挙げ、横溝正史も好んでいる。飲みに行くこともままならなかった戦争中には、平野謙、荒正人、檀一雄、埴谷雄高らと大井広介邸に集まり、犯人あてのゲームに興じていたが、推理に一番熱心であったが一番当らなかったという。大井広介は、「彼(安吾)の推理は不可思議な飛躍をする」ことが多かったと回想している。安吾は推理小説を、パズルの魅力やゲームとして楽しむ理知的な娯楽と捉えているが、それを成立させるためには、「作家的、文学的、洞察と造型力」が必須であり、「いやしくも犯罪を扱う以上、何をおいても、第一に人間性についてその秘奥を見つめ」ていなければならないと語り。トリックが先にありきで後から登場人物を当てはめたような、「有りうべからざる人間心理をデッチあげ」、「人間性を不当にゆがめている」作品には批判的である。10月に「青鬼の褌を洗う女」を『愛と美』(『週刊朝日』25周年記念号)に発表するが、この作品のモデルと自称する梶三千代とは、3月に新宿の酒場チトセで知り合い、毎週水曜日に秘書として手伝いをしてもらうようになり、9月から結婚生活に入った(正式な婚姻届はのちの1953年8月24日)。なお、安吾自身は「青鬼の褌を洗う女」について、〈特別のモデルといふやうなものはない。書かれた事実を部分的に背負つてゐる数人の男女はゐるけれども、あの宿命を歩いてゐる女は、あの作品の上にだけしか実在しない〉としている。
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