士官生徒制度(フランス式旧陸軍士官学校制度)
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1874年(明治7年)11月2日の陸軍士官学校条例 により、12月市ヶ谷台に陸軍士官学校が開校され、1875年(明治8年)2月第1期の士官生徒が入校した。いわゆる旧陸軍士官学校、ないしは旧陸士と呼ばれるものである。教育制度はフランス式で、フランス陸軍から招聘した教官が指導した。 この修業期間は兵科によって異なっていた。歩兵・騎兵は当初2年であったが、1876年(明治9年)に3年に変更された。砲兵と工兵は当初3年であったが、1876年(明治9年)に4年、1881年(明治14年)に5年へと延長された。砲兵と工兵は在校期間が長く、少尉に任官した後も在校した。これを生徒少尉と称した。士官生徒制度は第11期生までで終わった(士官生徒卒業生は1285名)。 学習内容は1学年では幾何学・代数学・力学・理学・化学・地学。2学年で軍政学・兵学・築城学・鉄道通信学などを学ぶ。 この教育制度の特徴は砲兵と工兵の教育期間が長いことであった。加えて、後の士官候補生制度(ドイツ式陸軍士官学校制度)とは異なり、フランス式幼年学校出身者には、兵や下士官の経験を踏ませることなく、軍隊内のエリートとして将校を養成したことであった。これは将校へのなり手が少なかった近代フランスでは有効であり、早急に近代的な将校が必要とされた日本でも有効であった。とはいえ、設立当初の生徒はエリート育成とは程遠い荒くれ者ばかりで喧嘩が絶えず、歩兵科に至っては素行点が零点というものがほとんどであった。特に2期生と3期生の大規模な喧嘩は有名で、軍法会議で放校処分になった者が出るほどであった。 近代フランスでは、ドイツとは異なり、宮廷官僚や、行政司法官僚、地主などの、貴族の子弟から将校を輩出する将校任用制度は、フランス革命とナポレオン戦争中、消滅していた。フランス革命軍およびナポレオン軍では、将校は、平等に互いに選び合う、兵と下士官の互選選挙によって選ばれ、軍団を管轄する元帥によって採用され任用された。しかしルイ王制時代は士官学校入学許可は貴族子弟だけで、互選将校は過去に専門の士官学校教育を受けていなかったため、騎兵元帥ミシェル・ネイのごとく、各兵科間の戦術の融通性をしばしば欠いたり旺盛な戦意のあまり攻勢に固執し撤退時期を誤るなど戦略眼の狭い者もいた。フランス革命とナポレオン戦争中の身分制による将校の消滅後、近代フランスでは、裕福な官僚やブルジョワジーから高学力の子弟を募集し、試験制度によって幼年学校、士官学校に入校させ、士官学校卒業後将校に任用した。彼らの教養ある裕福な父母を懐柔するため、粗野な兵や下士官から隔絶された、まったくのエリートとしての将校教育制度が成立した。 日本ではフランス式旧陸軍士官学校へは、フランス式幼年学校出身者のみならず、戊辰戦争を経験した兵卒上がりの部隊下士官や、田中義一のように下士官養成機関であった教導団出身の下士官なども入校した。フランス式旧陸軍士官学校の特色の一つは、そのような下士官を将校に取り立てることであった。彼らは年長で少尉となり、陸大閥が出現する以前の長州閥や薩摩閥上原勇作派を中心とした、陸軍将校団の主軸ともなった。他方、フランス式幼年学校から、フランス式旧陸軍士官学校に入学した若年層がいた。彼らは、明治維新後没落した貧困な旧藩などの初等教育がほどこされた子弟であったともされている。後のドイツ式陸軍士官学校制度とは異なり、彼らは教育をになった平時の中隊の内務班へ派遣されることがなかったため、兵や下士官の経験を経なかった。このためフランス式幼年学校出身で、フランス式旧陸士を卒業した若年少尉は、隊付将校となってもしばしば軍隊勤務の適性なく、中途で退職する者が多く出た。 なおフランス式旧陸士入学者には、旧制中学校出身者は含まれていない。その理由は、初の中学校令であった1886(明治19)年4月勅令第15号『中学校令』によって、旧制尋常中学校が、高等中学校(後の旧制高校)と共に設置された。すなわちフランス式旧陸軍士官学校は、明治19年勅令第15号『中学校令』が公布される以前の制度だったからである。旧第2期井口省吾や旧第11期奈良武次が、旧制中学校卒業ではなく、私塾や私立学校卒業後、フランス式旧陸士に入学したのは、旧制中学校の制度がまだできていなかったからである。次にあげる、初のドイツ式『陸軍士官学校官制』の公布は、明治20年勅令第25号によってであり、明治19年勅令『帝国大学令』『中学校令』発布の後であった。 1877年の西南戦争の際にはまだ入校して1、2年足らずの1期生と2期生が見習生として動員され、校長の曾我祐準や陸軍卿山縣有朋までもが出兵している。この影響で同年2月に入学する予定の3期生は西南戦争で同年5月まで待機させられており、秋山好古などがその一人であった。
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