士官学校時代、社交界での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:22 UTC 版)
「ミハイル・レールモントフ」の記事における「士官学校時代、社交界での生活」の解説
レールモントフ自身は士官学校時代の2年間を「恐怖の2年間」と呼び、飲酒、カードなどの放蕩に耽りながらも文学との関わりは保ち続けていた。軍事教練の合間を縫ってプガチョフの乱を題材とした歴史小説『ヴァジム』の執筆に取り組んだが、小説は未完に終わる。レールモントフは1834年に士官学校を卒業した後、ツァールスコエ・セローに駐屯する近衛騎兵連隊に配属される。 上流社会に嫌気がさし、一度中断していた創作活動を再開する。1835年に戯曲『仮面舞踏会』を書き上げるが、上流社会の偽善をつまびらかにした作品であったため、上演は許可されなかった。 1837年に詩人プーシキンが決闘で落命する事件が起きる。プーシキンの死を悼んだレールモントフは詩『詩人の死』を書き上げ、プーシキンの才能と勇気を称賛するとともに、彼の死を招いた上流階級を痛烈に批判した。プーシキンの死を悲しむ人々は『詩人の死』に込められた怒りに共感し、『詩人の死』は政府の厳重な監視をすり抜け、筆写によって全国に広がっていった。皇帝ニコライ1世の側近を弾劾した『詩人の死』を発表した結果レールモントフは逮捕、投獄され、約1年間カフカースに左遷される。
※この「士官学校時代、社交界での生活」の解説は、「ミハイル・レールモントフ」の解説の一部です。
「士官学校時代、社交界での生活」を含む「ミハイル・レールモントフ」の記事については、「ミハイル・レールモントフ」の概要を参照ください。
- 士官学校時代、社交界での生活のページへのリンク