堀の利用と長所・短所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:03 UTC 版)
筑紫平野の堀(クリーク)は、水田の灌漑や治水(=水路や流れ堀の機能)、水運(運河の機能)、生活用水、食料・肥料の供給源という多くの機能を持っていた。 農業では、用水をすべて堀に依存するため独特の作業や農具を用いた(クリーク農法)。 揚水灌漑 - 概して堀の水面は水田面より低いため、水田の水はすべて堀から汲み上げて賄う。古くは「汲み桶(くみおけ)」を用いた手作業、江戸中期からは新たに発明された「踏み車」(足漕ぎ動力の水車)による人力作業で大きな労力を要した。大正末期に電力を用いた揚水ポンプが普及した。通常のため池と異なり堀は水田に直接接している。水田から排出された堀に溜まった水を灌漑水として揚水し、繰り返し何度も利用(還元利用)することで、川の水やアオの取水量が節減された。 水田馬耕 - 代掻きの際、牛や馬に牽かせた「水田犂(みずたすき)」「馬鍬(まが)」などを用いて土を入念に耕す。乾燥して硬い粘土質の土の表面を耕すと同時に、耕盤(土の底部)の亀裂を埋め、貴重な水が漏れないようにする。 泥土揚げ(俗に「ごみくい」「ごみあげ」) - 毎年稲刈り後の12月頃堀の水を抜き(「堀干し」)、翌年2月 - 3月頃、堀に沈殿した泥土を汲み上げ(=浚渫)、田に客土として加えると共に、堀の水の流れを良くして貯水量を増やす。水田からの排水は肥料分を含んでいるので泥土も肥沃で、客土にした場合平均で2割程度の増収があり、「秋落ち」の防止につながった。ただし、泥土は自然に堆積し堀の容量は年々小さくなっていくため、堀の機能を保つためにも必要な作業だった。 早晩二期作 - 春の揚水と馬耕には多大な労力を要するため、田植えを1か月開けて2度に分けることで、労力を分散させた。 個人の所有地(田)の地先にある堀の泥土はその個人のものとなるが、労力の大きい泥土揚げ作業は協同作業を必要とする。そのため村落には一種の共同体が形成され、各村内の堀を順番に協同作業で泥土揚げしていく習慣があった。 また、特に江戸時代は蔵入米を運ぶため堀を利用した水運が盛んだった。生活面でも、水は炊事や風呂などの生活用水にも利用し、コイやフナ、ウナギやドジョウなどの川魚、エビやタニシ、ヒシやクワイなどの水生植物が採れ食用にしたり、堀岸のヨシを葦葺き屋根材にしたりしていた。 クリーク網での取水・排水や水位の管理は、堰や樋門・樋管により行われる。例えば南筑平野の柳川藩・久留米藩域では、藩政期の旧村ごとに(あるいはいくつかの村を単位として)取水・排水を行う堰や樋門・樋管を設け、複数の水源から取水し、連結された村内のクリークで水を共有する「水囲い」が特徴で、上流から下流へ順番に満水にし、余水を下流に流すという水利慣行があった。 春夏の灌漑期は排水樋門等を閉めて水位を高く保ち貯水、秋冬の非灌漑期は開放して常時排水し水位を下げた。これにより、低湿地でありながら秋冬は乾田化し麦など裏作が栽培できた。また、灌漑期は高水位ながらも満水よりやや下の水位に留め、洪水時の一時的な貯水池の役割を持たせていた。 その反面、灌漑期の洪水の際は排水樋門等を閉めることにより排水が難しくなり、その結果地下水位が高くなって稲の生育に悪影響を及ぼす。さらに、盛夏期の堀の水はほとんど循環がないため時に水温35度を超える高温になり、これも稲に悪影響がある。 また、堀(クリーク)の水は雨水とより上流の堀の余水に依存する仕組みなので、上流部になるほど、水の配分が肝要となり水争いが起きやすかった。一方で、排水樋門等を操作する権利はそのクリークの所有者・村落が管理するため、下流で樋門が閉じられると上流は排水困難となり湛水(=不要な水を溜めざるを得ない状態に)してしまう。この操作の権利を巡っても争いが起きやすかった。 また、複雑な配置の堀により、農道はしばしば迂回するため農作業には非効率な面があり、多くの橋も必要となって維持管理を要した。同様に、堀により水田の形は複雑に区画されて広げることが難しく、近代になると大型機械の足枷となった。さらに上流からの排水・汚水が流れ込むため衛生上好ましくない面もあった。
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