堀の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:03 UTC 版)
筑紫平野の低地に堀(クリーク)が発達したのは、水田の面積に対して山地の面積の比率が小さく水源が不足しがちであることや、開墾される以前、筑紫平野の低平地はアシ原のような水はけの悪い湿地が広がり、開墾のためには排水と利水が不可欠だったこと、また1/4000 - 1/7000と極めて勾配が小さい平坦地が広がるため自然灌漑が難しく、水路網が必要なことなどが挙げられる。自然に形成された「流れ堀」や「江湖」(共に後述)を中心として、縦横に堀(クリーク)が掘り進められた。 クリーク網の規模は1955年(昭和30年)頃、佐賀平野では総面積約1,900ha・総貯水量は2,200万トン(北山ダムに匹敵)、南筑平野では花宗川流域だけで総面積約350ha・総延長560kmだった。堀の密度(面積比)が高いのは、佐賀平野では佐賀市兵庫町・巨勢町や神埼市千代田町付近、南筑平野では大木町付近で、いずれも河川や海から遠く貯水の必要性が高いところである。 堀(クリーク)は自然に形成された側面と人為的に造成された側面があり、成因は複合的である。 干潟の澪筋や河川の旧河道が発達して残ったもの。幅が比較的広い。「流れ堀」や「江湖」、「江湖堀」などと呼ばれる。 奈良時代以降、条里制により方形に区画された田畑に沿って人為的に掘られたもの(条里遺構)。当時陸化していた平野の中部以北に分布。開墾当初の土は均一かつ軟弱質なため、普通の土よりも掘削が易しかったと考えられる。 戦乱の多い中世に、城館や集落の周囲に防御のため設けられたもの。あるいは、農村における土取り堀として集落単位で設けられたもの。どちらも環濠の形状。 鎌倉時代末期以降、干拓地の遊水池(潮遊び)として設けられたもの。主に堤防沿いや、集落の内陸側に接するように位置する(干拓地の集落は旧堤防上に帯状に並ぶことが多く、その内陸側に残存する)。 中世・近世以降、城下町全体の政治の一環として、ばらばらに管理されていた各地の堀が体系的に整理され、利水・治水の問題解決が図られた。(例:蒲池城下の堀の開削と牛土居、佐賀藩内成富兵庫茂安の佐賀江改修・三千石堰と周辺などの事業、田中吉政による柳川城堀割・花宗川・太田川開削と周辺水利など)
※この「堀の形成」の解説は、「筑紫平野」の解説の一部です。
「堀の形成」を含む「筑紫平野」の記事については、「筑紫平野」の概要を参照ください。
- 堀の形成のページへのリンク