各メディアによる災害報道
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「1888年の磐梯山噴火」の記事における「各メディアによる災害報道」の解説
1888年の磐梯山噴火について、最も詳細な報道を行ったのは地元紙であった福島新聞であったと考えられている。1888年7月の福島新聞の紙面は発見されていないが、東京発行の新聞に転載された福島新聞の記事内容から、詳細な噴火報道が行われていたことが推測されている。また各新聞の中で最も早く磐梯山噴火を報道したのも福島新聞であったことが、地元住民の日記に掲載されていた7月16日付の福島新聞記事の抜粋記事から明らかになっている。 東京発行の各紙は、16日がたまたま新聞休刊日であったため、翌17日から磐梯山噴火に関する記事を報道している。この17日の報道内容は各紙とも比較的簡単なもので、ニュースソースは公的機関からのものであった。 翌18日から、各紙はそれぞれの特長を生かした磐梯山噴火報道を展開する。政府寄りの新聞とされた東京日日新聞は、天皇からの恩賜金3000円の下賜や侍従の被災地派遣が決定したことをいち早く社説で取り上げた。噴火報道については特派員を現地派遣せず、主に現地通信員からの報告を連載するという方法や地元紙福島新聞の記事の転載という形を取った。また当時、経済情報に強いとされ社会的信用があった時事新報は、特派員を現地に派遣して取材を行った。特派員を派遣した新聞社は時事新報以外に報知新聞、朝野新聞、報知新聞、朝日新聞などがあったが、朝野新聞以外の新聞社は、農商務省地質局、内務省地理局の専門家の現地調査に同行して取材を行った。これは当時はまだ、災害現場で新聞記者が独自取材を行うことが出来る実力に欠けていたためと考えられる。また専門家に同行しての現地取材ではあったが、現地ではやはり各紙記者による報道合戦が繰り広げられたと考えられている。 各紙の中で現地取材に最も積極的に取り組んだ新聞のひとつが朝日新聞であった。噴火のわずか5日前の7月10日に東京進出を果たした朝日新聞は、7月16日に新進記者を現地に派遣し、磐梯山噴火口の現場を報告する記事などを発表した。続いて噴火の状況を版画にすべく、山本芳翠と山本の弟子を20日に追加派遣した。山本らも内務省土木局から派遣された古市公威と同行する形で現地入りしており、やはりこれも災害取材を新聞社単独で行うのは難しかった実情を示していると考えられる。なお、山本らは朝日新聞紙上で磐瀬村長坂、磐瀬村見祢などといった被災地のルポルタージュを掲載し、更に山本が描いたスケッチをもとに合田清が製作した木版画「磐梯山噴火真図」を新聞付録として発表している。 朝日新聞の磐梯山噴火の現地報道は、専門家に密着した取材内容や被災地のルポなど、知識欲がある新たな読者層の獲得を目指したものであり、噴火報道によって知名度を上げることに成功した朝日新聞は、東京での発行部数を急速に増やしていった。また磐梯山噴火後の記者の現地派遣は、濃尾地震などその後に続く災害報道の先駆けとなるものとなった。 噴火開始から数日間の報道の特長としては被災者支援に関する報道が少なく、磐梯山噴火という自然現象に対して、農商務省地質局、内務省地理局、内務省土木局、帝国大学といった専門機関がそれぞれ専門家を派遣し、学術的な調査を行うといった報道が目立つことである。各紙の社説や記事も「被災者はお気の毒であるが、磐梯山噴火は地学に関する学術研究のまさに好機である」。といった論調が多かった。 7月21日になって新聞社15社合同で義援金の募集を発表した。朝日新聞は戊辰戦争で戦場となり大きな被害、苦しみを受けた会津が、また磐梯山噴火という大きな災難に見舞われたとして、会津人民の不幸に同情するという内容の社説を掲載した。翌22日には各紙とも義援金の拠出を促す社説を掲載した。こうして新聞各紙はこれまであまり報道して来なかった被災者支援にようやく目を向け始めた。その後も義援金の募集や犠牲者追悼の記事が掲載され、被害状況について紹介する記事は減っていった。また磐梯山噴火の調査に従事した専門家に取材した記事や、現地取材に従事した記者たちによる記事が掲載されるようになった。そして8月に入る頃には、多くの新聞では磐梯山の噴火報道は下火となっていく。 そして朝日新聞は磐梯山噴火災害報道でこれまで見られなかった試みを行った。磐梯山噴火をテーマとした連載小説「虚無僧富士磐梯(こむそうふじういわおのかけはし)」を、7月29日から8月31日までの間の29回に渡って、絵入りで連載したのである。この虚無僧富士磐梯の作者は不明であり、小説としても成功したものとは言い難いが、東京進出間もない朝日新聞が読者の歓心を得やすい連載小説を掲載して、積極的な読者獲得を目指そうとしていたことの現れであると考えられる。 前述のように磐梯山噴火を報道する新聞記事は、噴火後約1週間を経て被災者に対する義援金の応募や、現地からの専門家や記者たちの生の情報が掲載されるようになった。噴火直後からこのような報道がなされなかった背景には、もちろん当時の情報の伝達スピードの問題などがあったが、やはり災害報道共通の課題として指摘できる被災地とそれ以外の地との情報ギャップという問題に突き当たる。結局、現地との情報ギャップは十分に解決されぬまま報道は下火となっていき、世間の関心も低下していった。 日本国外のメディアも磐梯山噴火を報道した。イギリスのタイムズはヘンリー・S・パーマーの現地取材記事を掲載している。またフランスのル・モンドの通信員であったジョルジュ・ビゴーの磐梯山噴火の通信文、銅版画が、ル・モンド・イリュストレに掲載された。
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