史跡・その他
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見島ジーコンボ古墳群 見島南東部、また本村の東側に広がる横浦海岸一帯に約200基もの古墳が並ぶ積石塚古墳群がある。7世紀から10世紀ごろのものと思われるこれらの古墳は高度な文化をもった指揮官クラスの墓ではないかと考えられている。ある見解では防人の墓とも言われている。 この名称ジーコンボの由来については有力な説が二通りあり、台湾語で共同墓地を意味する「地公墓」から来ているという見方と、じいさんを意味するジーコーという古い地元言葉の名残ではないかという見方のいずれかであろうと言われている。1984年(昭和59年)7月25日に国の史跡に指定された。 露兵漂着地記念碑 1905年(明治38年)、見島沖で日本海海戦が行なわれた際に撃沈したロシアのバルチック艦隊の乗組員55名がボートに乗って宇津海岸に漂着した。その中には重症者も10名含まれており、島民は「同じ海に生きる者として」治療と救護に尽くした。この人道的行為を誇り、賞賛する証しとして宇津海岸近くに記念碑が建てられている。 昭和天皇御製 ゆりや貝を詠う記念碑 「秋ふかき 海をへたて々ゆりやかひの すめる見島をはるか見さぐる」と詠われた記念碑が古牧台公園に建てられている。 見島のカメ生息地 見島はかつて本州の一部だったらしく、その根拠として見島のカメが引き合いに出される。見島小学校の北側にある「片くの池」に生息するイシガメ・クサガメがそれであり、国の天然記念物となっている。 見島の牛 「見島牛」も参照 室町時代頃に朝鮮半島から渡来し、現代まで異系交配されず飼育されてきたため、日本で最も古い和牛、原型と言われる。1928年(昭和3年)9月20日、国の天然記念物に指定されており、数は減っているがいまも保存会が保存に努めている。 おしあいの館 毎年7月28日の住吉神社例祭で行われていた勇壮な和船競漕の船「金波」「銀波」が展示されている。「住吉神社例祭記録」には1871年(明治4年)に「おしあい」が行われたと言う記録が残っており、当時の「おしあい」は、競争意識が強く船頭の裁量でこぎ手が選ばれていたとされている。
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史跡・その他
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黒塚の位置 上記の観世寺は、祐慶が観音像を祀るために建立した寺であるとされている。同寺の境内には鬼婆像の他、鬼婆の墓や、鬼婆の住んでいた岩屋、血で染まった包丁を洗ったという池など黒塚伝説にまつわる物が多く残されており、観光客も多い。伝説は時を経てなお人々の心に恐怖と哀しみを与え続けているといわれ、俳人・正岡子規もこの寺を訪れ「涼しさや聞けばむかしは鬼の塚」と詠んでいる。また寺にある如意輪観世音菩薩の胎内には、祐慶が鬼婆退治に用いたとされる如意輪観世音菩薩が埋め込まれており、60年ごとに開帳される。 二本松市内の観光施設「安達ヶ原ふるさと村」では、この鬼婆伝説を再現した「黒塚劇場」が開催された他、本来の伝説のおどろおどろしさを払拭すべく、鬼婆の姿を二頭身にディフォルメした「バッピーちゃん」をイメージキャラクターとしたりと、様々な工夫がなされている。黒塚劇場は前後に舞台を設け緞帳代わりに障子、老婆の姿の精巧なロボットが語り部となり、後半は客が180度向きを変えて続きが演じられる二舞台方式だった。2007年に「ふるさと村」が無料開放されることに伴い黒塚劇場は閉鎖された。
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