南都からの脱出・近江での生活
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「足利義昭」の記事における「南都からの脱出・近江での生活」の解説
永禄8年(1565年)5月19日、第13代将軍であった兄・義輝が京都において、三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害された(永禄の変)。このとき、母の慶寿院、弟で鹿苑院院主・周暠も殺害された。 義輝の死後、覚慶は松永久秀らによって、興福寺に幽閉・監視された。久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる。実際に監視付といっても、外出禁止の程度で行動は自由であった。ただし、大覚寺門跡の義俊が上杉輝虎(謙信)に宛てた手紙では、厳重な監視としている(『上杉古文書』)。 やがて、覚慶を興福寺から脱出させるべく、越前の朝倉義景が三好・松永に対して、「直談」で交渉を行った。だが、この交渉は不調に終わり、謀略を使って脱出を行うことになった。 7月28日夜、覚慶は兄の遺臣らの手引きによって、密かに興福寺から脱出した。義俊の書状によると、立役者は義俊と朝倉義景とのことだが、実際には義輝の近臣であった細川藤孝と一色藤長が脱出において活躍したと考えられる。藤孝の画策により、米田求政が医術を以て一乗院に出入することで覚慶に近づき、番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出に成功させたと伝わる。 覚慶とその一行は、奈良から木津川をさかのぼり、伊賀国の上拓殖村を経て、翌日には近江甲賀郡の和田に到着した。そして、和田の豪族・和田惟政の居城・和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)に入り、ここにひとまず身を置いた。この地には藤孝が案内したという。 覚慶はこの地において、足利将軍家の当主になることを宣言し、各地の大名らに御内書を送った。この呼びかけに、覚慶の妹婿で若狭の武田義統、近江の京極高成、伊賀の仁木義広らが応じたほか、幕臣の一色藤長、三淵藤英、大舘晴忠、上野秀政、上野信忠、曽我助乗らが参集している。 また、覚慶は諸国の大名に御内書を発することで、その糾合に努めた。その初期には、関東管領・上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼しているほか、安芸の毛利元就、肥後の相良義陽、能登の畠山義綱らにも書状を出して出兵を要請した。これらには和田惟政の副状が発給され、輝虎のみならず、越前の朝倉義景、河内の畠山尚誠、三河の徳川家康らより、覚慶に協力する旨の書状が惟政に送られた。 11月21日、近江の六角義賢の好意を得て、甲賀郡和田から京都に程近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に移り住み、在所とした(矢島御所)。当時、京都においては、三好義継ら三好氏が義秋の従兄弟・足利義栄を将軍に就任させようとしていたが、松永久秀と三好三人衆の間では確執による内部分裂が発生しており、これを上洛の好機と捉えたとみられている。 この時、和田惟政は尾張の織田信長に上洛への協力要請を取り付けるため、尾張に滞在しており、惟政には無断の移座であった。後日、惟政が激怒していることを知った覚慶は惟政に謝罪の書状を送っている。 永禄9年(1566年)2月17日、覚慶は矢島御所において還俗し、義秋と名乗った。義秋の名は、僧侶の勘進によるものだったらしい。 4月21日、義秋は吉田神社の神主・吉田兼右の斡旋により、朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官を受けた。この叙任は本来、武家伝奏を経て朝廷に申請するのが正式な手続きであったが、足利義栄が摂津普門寺まで進出している政治事情を配慮して、吉田兼右の斡旋で「御隠密」に行われた。その後、同年12月に義栄も同様に叙任を受けたが、左馬頭は次期将軍が就く官職であり、朝廷が義秋を義栄より先に任じたことは、義秋を正統な後継者として認識していた可能性が高い。 矢島御所において、義秋は近江の六角義賢、河内の畠山高政、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山秋高をこの頃に義秋へ従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の婚姻の実現を働きかけている。 義秋はまた、輝虎と甲斐の武田信玄・相模の北条氏政の3名に対して講和を命じたほか、美濃の斎藤龍興と交戦していた尾張の織田信長と通交して、出兵を促した。義秋の構想は、相互に敵対していた斎藤氏と織田氏、六角氏と浅井氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。 和田惟政と細川藤孝の説得により、信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。和議の成立によって、信長は8月22日に出兵することを約束した。 8月3日、義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸に矢島御所で内通する者がおり、その軍勢3,000余騎が矢島を攻撃すべく、坂本まで進出した。だが、この時は坂本で迎撃し、奉公衆の奮戦により、からくも撃退することが出来た。信長の上洛計画が現実味を帯びたことで、三好氏が先制攻撃を仕掛けたと考えられる。 8月29日、義秋から室町幕府再興の呼びかけを受けて上洛の兵を起こした信長の軍は、斎藤龍興の襲撃にあって、美濃を通過できなくなってしまった。このとき、敗れた信長の軍勢は「前代未聞」の敗戦ぶりであったといい、斎藤氏から嘲笑を受ける程であったという。 同日、近江の六角義賢・義治父子が叛意を翻した。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは、三好方による巻き返しの調略があったとみられている。信長は美濃を通過できず、さらにはその先の近江も不穏となったため、撤退せざるを得なくなった。
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