南都からの脱出・近江での生活とは? わかりやすく解説

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南都からの脱出・近江での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「南都からの脱出・近江での生活」の解説

永禄8年1565年5月19日第13代将軍であった兄・義輝京都において、三好義継三好三人衆松永久通らによって殺害された(永禄の変)。このとき、母の慶寿院、弟で鹿苑院院主周暠殺害された。 義輝死後覚慶松永久秀らによって、興福寺幽閉監視された。久秀らは覚慶将軍の弟で、なおかつ将来興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺敵に回すことを恐れて幽閉とどめたとされる実際に監視といっても、外出禁止程度行動は自由であった。ただし、大覚寺門跡義俊上杉輝虎謙信)に宛てた手紙では、厳重な監視としている(『上杉古文書』)。 やがて、覚慶興福寺から脱出させるべく、越前朝倉義景三好松永に対して、「直談」で交渉行った。だが、この交渉不調に終わり謀略使って脱出を行うことになった7月28日夜、覚慶は兄の遺臣の手引きによって、密かに興福寺から脱出した義俊書状によると、立役者義俊朝倉義景とのことだが、実際に義輝近臣であった細川藤孝一色藤長脱出において活躍した考えられる孝の画策により、米田求政医術を以て一乗院出入することで覚慶近づき番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出成功させたと伝わる。 覚慶とその一行は、奈良から木津川さかのぼり伊賀国の上拓殖経て翌日には近江甲賀郡和田到着した。そして、和田豪族和田惟政居城和田城伊賀 - 近江の国近くにあった和田惟政居城)に入り、ここにひとまず身を置いた。この地には孝が案内したという。 覚慶はこの地において、足利将軍家当主になることを宣言し各地大名らに御内書送った。この呼びかけに、覚慶妹婿若狭武田義統近江京極高成、伊賀仁木義広らが応じたほか、幕臣一色藤長三淵藤英大舘晴忠、上野秀政上野信忠曽我助乗らが参集している。 また、覚慶諸国大名御内書発することで、その糾合努めた。その初期には、関東管領上杉輝虎謙信)らに室町幕府再興依頼しているほか、安芸毛利元就肥後相良義陽能登畠山義綱らにも書状出して出兵要請した。これらには和田惟政副状発給され輝虎のみならず越前朝倉義景河内畠山尚誠三河徳川家康らより、覚慶協力する旨の書状惟政送られた。 11月21日近江六角義賢好意得て甲賀郡和田から京都程近い野洲郡矢島守山市矢島町)に移り住み在所とした(矢島御所)。当時京都においては三好義継三好氏義秋従兄弟足利義栄将軍就任させようとしていたが、松永久秀三好三人衆の間では確執による内部分裂発生しており、これを上洛好機捉えたとみられている。 この時、和田惟政尾張織田信長上洛への協力要請取り付けるため、尾張滞在しており、惟政には無断の移座であった後日惟政激怒していることを知った覚慶惟政謝罪書状送っている。 永禄9年1566年2月17日覚慶矢島御所において還俗し義秋名乗った義秋の名は、僧侶勘進よるものだったらしい。 4月21日義秋吉田神社神主吉田兼右斡旋により、朝廷から従五位下左馬頭叙位任官受けた。この叙任は本来、武家伝奏経て朝廷申請するのが正式な手続きであったが、足利義栄摂津普門寺まで進出している政治事情配慮して吉田兼右斡旋で「御隠密」に行われたその後同年12月に義栄も同様に叙任受けたが、左馬頭次期将軍が就く官職であり、朝廷義秋を義栄より先に任じたことは、義秋正統後継者として認識していた可能性が高い。 矢島御所において、義秋近江六角義賢河内畠山高政越後の上輝虎能登畠山義綱らとも親密連絡をとり、しきりに上洛機会を窺った。特に高政義秋積極的に支持していたとみえ、実弟畠山秋高この頃義秋従えさせた。六角義賢当初上洛積極的で、和田惟政命じて浅井長政織田信長の妹・お市の方婚姻実現働きかけている。 義秋また、輝虎甲斐武田信玄相模北条氏政の3名に対して講和命じたほか、美濃斎藤龍興交戦していた尾張織田信長通交して、出兵促した義秋構想は、相互に敵対していた斎藤氏織田氏六角氏浅井氏更には武田氏上杉氏後北条氏らを和解させ、彼らの協力上洛目指すものであった考えられている。 和田惟政細川藤孝説得により、信長斎藤龍興和解応じ信長美濃から六角氏勢力圏である北伊勢・南近江経由して上洛することになった和議成立によって、信長8月22日出兵することを約束した8月3日義秋行動に対して三好三人衆三好長逸矢島御所内通する者がおり、その軍勢3,000余騎が矢島攻撃すべく、坂本まで進出した。だが、この時は坂本迎撃し、奉公衆奮戦により、からくも撃退することが出来た信長の上計画現実味帯びたことで、三好氏先制攻撃仕掛けた考えられる8月29日義秋から室町幕府再興呼びかけ受けて上洛の兵を起こした信長の軍は、斎藤龍興襲撃にあって美濃通過できなくなってしまった。このとき、敗れた信長軍勢は「前代未聞」の敗戦ぶりであったといい、斎藤氏から嘲笑を受ける程であったという。 同日近江六角義賢義治父子叛意翻した斎藤龍興六角義賢離反がほぼ同時に起きているのは、三好方による巻き返し調略があったとみられている。信長美濃通過できず、さらにはその先近江不穏となったため、撤退せざるを得なくなった

※この「南都からの脱出・近江での生活」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「南都からの脱出・近江での生活」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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