千人隊の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「ジュゼッペ・ガリバルディ」および「千人隊」も参照 1860年の時点で、イタリアには4カ国のみが残された。依然としてヴェネトを統治するオーストリア帝国、レガツィオーネ地域を失った教皇国家、拡大したサルデーニャ王国そして南イタリアの両シチリア王国である。この時点で、カヴールがイタリアの残りの部分のサルデーニャ王国主導での統一を構想していたとは考え難い。なぜなら、これらの地域の経済的な価値は少なく、却って財政的負担になるからである。だが、事態は彼の意図を越えて進展することになる。 両シチリア王フランチェスコ2世(「砲撃王」(Re Bomba) のあだ名で悪名高いフェルディナンド2世の後継者)は、15万人の訓練された軍隊を有していた。だが、父王の専制の結果、国内に多数の秘密結社が結成され、さらにスイス政府が自国民が外国の傭兵になることを法律で禁止したため、王国のスイス人傭兵が突如本国に帰還する事態が起こってしまった。このためフランチェスコ2世にはあまり信頼できない兵隊のみが残された。これはイタリア統一のための決定的な機会となった。1860年4月、歴史的にナポリの支配に抵抗してきたシチリア島のメッシーナとパレルモで反乱が発生したが、王国軍によって簡単に鎮圧された。 1848-49年革命の挫折以降、民主派の一部は共和制に固執するマッツィーニから離れ、サヴォイア家を中心とするイタリア統一に傾き「イタリア国民協会」を結成していた。ガリバルディもこれに参加し、1859年の第二次イタリア独立戦争ではアルプス猟兵隊を組織してオーストリア軍と戦っている。だが、この頃のガリバルディは出身地のニースがフランスに割譲されたことに深い憤りを感じており、以降、カヴールに強い不信感を持つようになっていた。彼は自らの支持者とともに町を奪回することさえ計画している。マッツィーニら民主派は立憲君主制を支持する穏健派に取られているイタリア統一の主導権を奪い返すべく、シチリア遠征を企画しており、その司令官としてガリバルディに出馬を要請した。 1860年5月6日、ガリバルディとおよそ1000人の同志(千人隊:I Mille)はジェノバ近くのクァから出港し、5月11日にタラモーネに停泊した後にシチリア島西海岸のマルサーラ近くに上陸した。 サレーミ近くで、ガリバルディの部隊は四散していた反政府勢力を集め、5月14日、ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名の下で、自らがシチリアの独裁権を掌握したと宣言した。翌5月15日、ガリバルディはカラタフィーミで敵軍を撃破した。この戦い自体は小規模なものだったが、政府軍に対する勝利は島全体に大きな反響を呼び、千人隊に呼応する農民反乱が広まった。ガリバルディは戦勝を重ねつつ、シチリアの首都パレルモへと進んだ。5月26日、ナポリ政府軍のフェルディナンド・ランツァ(イタリア語版)将軍が守るパレルモを包囲し、市内では暴動が発生し市街戦となった。 パレルモ市民が反乱派だと判断したナポリ政府軍のランツァ将軍は猛烈に町を砲撃してほとんど廃墟と化させた。英国海軍の提督の仲介で停戦が成立し、ナポリ政府軍はメッシーナへ撤退し、町はガリバルディと彼の小部隊に降伏した。 ガリバルディは事前にシチリアに潜入していた民主派活動家フランチェスコ・クリスピ(英語版)と協力してシチリア統治を行い、農民の支持を得るために1848年革命の諸措置の復活や製粉税の廃止、共有地の配分を行ったが、農民が彼の意図を越えて貴族や官吏を襲撃し始めたため、農民反乱を弾圧している。 千人隊の遠征のニュースは欧州各国の新聞で英雄的な冒険として取り上げられ、ガリバルディの名声が広がり、アレクサンドル・デュマ・ペールやヴィクトル・ユーゴーといった文化人が彼を賞賛する論評を出した。一方、フランチェスコ2世は以前の憲法を再公布させるとともにナポレオン3世の介入を要請し、サルデーニャ王国との同盟まで提案したが、これらの努力でもブルボン王家の衰勢を立て直すことはできなかった。 パレルモの降伏から6週間後、ガリバルディはメッシーナを攻撃した。7月20日にメラッツォで決戦が行われ、遠征軍が勝利し、ナポリ政府軍はメッシーナに封じ込められた。シチリア島を征服したガリバルディはナポリ艦隊をしり目にメッシーナ海峡を渡り、本土へと進んだ。レッジョ・カラブリアの守備隊は速やかに降伏した。ガリバルディは北へと進軍し、どの土地でも民衆は彼を歓迎し、ナポリ軍の抵抗は衰えていった。8月18日と21日にバジリカータとプッリャの住民が自発的にイタリア王国への併合を宣言した。 8月末にガリバルディはサレルノ近くのエボリに到着し、9月5日にコゼンツァに至った。一方、ナポリ政府は戒厳令を布告するとともに、9月6日に国王は依然として彼に忠実な4,000の兵士とともにヴォルトゥルノ川まで後退した。その翌日、ガリバルディは列車に乗って少人数の部下とともにナポリに入城し、市民たちは公然と彼を歓迎した。
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