付属中学設置の見送り
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「東京都立秋川高等学校」の記事における「付属中学設置の見送り」の解説
1963年(昭和38年)9月28日、全寮制高校設置計画の具体案が作成された。当初案では高等学校普通科18学級720名に加え、付属中学校の設置も盛り込まれ、中学校は6学級240名とした。しかし、1964年(昭和39年)1月の予算査定では全寮制高校の計画は全て見送りとなった。全面復活を要求した第二次査定では概ね認められたが、付属中学校の設置については、時期尚早として見送られた。 開校当初は、マスコミや各県の教育委員会等が、秋川高校を視察に訪れた。5月21日NHKテレビ「スタジオ102」の取材で訪れた曽野綾子(当時33歳)は、食堂で「諸君はエリート意識を持て。エリート意識を失った全寮制高校は、団地学校より始末が悪い存在になる。エリートになるべく励め」と激励している。また、同年より日本寮歌祭にも参加した。日本寮歌祭は旧制高等学校卒業生を中心とする日本寮歌振興会が主催している寮歌に対する祭典で、日本武道館会場に毎年秋に開催され、秋川高校生が寮歌を歌う姿は、毎年、日本テレビ系列で全国に放映された。当時は、進学校の東京教育大学附属高等学校や開成高に合格しても全寮制に憧れ秋川に入学する者が多数おり『玉成寮の侍たち』と呼ばれた。 1967年(昭和42年)4月、初代舎監長は「これで3学年がそろった。一番心配なのは第一期生の進学のことである。父兄は、大学進学の結果で高校を評価する。これは、今後の秋川高校の発展を左右する重大問題である。もしも第一期生の大学進学が悪ければ、第5期生の応募状況に、その影響が表れてくるだろう」とし、その進学状況については地方大学(北大、東北大、大阪大等)には合格者を出したものの首都圏の主要国公立大学は惨敗で「苦心の割には成果が上がらなかった」と述べている。マスコミや社会、教育関係者が注目した第1期生大学進学状況の惨敗を受け第5期生において240名の募集に対し160名の応募で約70名の補欠募集、第6期生において約30名の補欠募集が行われたが、しかし、5期生も6期生も約40名の転校者を出した。大半が学力不足による転校勧告であった。パブリックスクールは、入学試験で足切があるが、都立校は定員迄は採用しなければならない。 中学教諭などは学力が低い生徒に対し、受験者数の定員割れをしていて足切のない秋川高校をすすめた。このため昭和47年の受験者数は400名ほどに増えたが、1.7倍の競争率の合格者の学力は実質無競争の5期・6期生より低かった。都立高校普通科の中では最も入学が容易となったため寮内でシンナー遊び・喫煙や暴力行為が、度々発生し、市内でも万引き行為や自転車泥棒もあった。7期生は5期・6期生を、大きく上回る60名の転校勧告者及び退学者を2年間に出したが、それを不服とする親が産経新聞に持ち込み1973年(昭和48年)に『2年間で21人を大量処分””補導忘れた教育”』として社会面一面に取り上げられた。 同窓会は、エリート校の集まりの日本寮歌祭への不参加を既に通知しており、この年(1973年)以降、毎年、開催されていた同窓会総会は、閉校(2001年)に至るまで、一度も開催されることはなかった。7期以降、中学教師は学力の低い生徒に秋川高の受験を勧め、寮生活を希望する者と学力は比例して年々低下し、1978年(昭和53年)慶応大学の推薦指定校の取り消し以降、1980年代に各大学の推薦指定校の取り消しが続き、1981年(昭和56年)第14期卒業生は、遂に国公立大及び早・慶の現役合格者は0になった。
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