事故と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/28 17:49 UTC 版)
東京での国際スポーツフェアで、チームメイトのスーニャ・ナップはジュリサが「ユルチェンコ」の練習で悪戦苦闘しているのを目撃していた。フォングは3か月前にジュリサの指導を始めてから、跳馬の練習には必ず付き添うようにしていた。日本での練習でもフォングはジュリサに付き添っていて、彼女が外国の環境と器具に慣れるのに時間がかかっても心配はしなかった。フォングの勘は正しく、競技初日のジュリサは跳馬でアメリカ合衆国代表選手中の最高得点を上げ、翌日の個人決勝に進む資格を得た。ジュリサはヒューストン時間の真夜中にオティリアに電話をかけて、この吉報を伝えた。そして「また明日電話するからね」と言った。 国際スポーツフェアの会場で、ジュリサはソビエト連邦の指導者ミハイル・クリメンコを見かけた。クリメンコがかつてエレナ・ムヒナのコーチだったという話を聞き、彼女の頭からはムヒナのことが離れなくなっていた。ジュリサが体操を始めた時、ムヒナは世界トップクラスの選手であった。ムヒナの優雅さと力強さを両立させた演技に惹きつけられ、ジュリサはムヒナの大ファンになっていた。ジュリサはその晩、夕食の席でもムヒナを話題にし、ホテルのナップの部屋でも遅くまで2人でしゃべった。ジュリサはナップにムヒナについて知っている様々なことを話し、20歳のときに練習中の不幸な事故で首から下が麻痺してしまったことまで話題にした。一度ジュリサは自室に戻っていったが、すぐにナップに電話をかけて「1人でいたくないの」と言い、ナップの部屋に泊まり込んだ。2人はベッドの中でもおしゃべりを続けたが、そのときにもジュリサはムヒナの話題を出していた。 翌日は、個人決勝の日だった。跳馬種目の2回目演技で自分の番が回ってきた。ジュリサは深呼吸をしてから助走に入った。ロイター板に対してロンダートに入り、踏み切った時に体のバランスが崩れ、左足では踏み切ったものの右足は端に滑って床に突っ込んだ。ジュリサは演技を続けようとしたものの、猛スピードで前頭部から馬の脇腹に突っ込むような体勢になってしまい、首の骨が損傷した。何とか身体は馬を飛び越えたものの、ジュリサはマット上にばったりと落ちた。 ヒューストン時間の午前2時、オティリアはかかってきた電話を取った。受話器の向こうから聞こえてきたのはジュリサの声ではなく、コーチのフォングの声であった。オティリアはその時、フォングが何を言っていたかを思い出せないでいるが、その内容は理解していた。彼女はミズーリ州にいる夫に電話をかけ、夜が明けると日本に向かう飛行機に搭乗していた。 ゴメス夫妻が日本で娘に面会を果たした際、ジュリサは意識があったが怯えていた。人工呼吸用のチューブが喉に差し込まれ、気管切開をしていたために会話することができなかった。オティリアはジュリサとの意思疎通の手段として、瞬き1回なら「イエス」、2回なら「ノー」という方法の他に、文字と板を買ってきた。オティリアは文字の一つ一つをジュリサが「イエス」と瞬きするまで指さし、また次の文字をジュリサの「イエス」まで並べていくことを繰り返した。ジュリサはこの方法で言いたい事柄を一言ずつ伝えていったが、事故や怪我については話に出すことはなかった。 事故の数日後、ヒューストンから東京にやってきた医師は夫妻に対して、ジュリサの首から下の麻痺は九分九厘治らないと告げた。夫妻は日本の主治医からジュリサをアメリカに連れ帰る許可が出るまで1週間待った。移送の許可が出ると、夫妻はアメリカ大使館に行って傷痍軍人用輸送機を利用する手続きの最後の段階を終えた。主治医は日本語でジュリサの病状について説明をしたが、夫妻にはその意味がわかっていた。主治医が気管のチューブを外すしぐさを見て取ったが、その日の夜中にジュリサの酸素供給装置は外されて昏睡状態に陥った。ジュリサの帰国に同行するためにヒューストンからやってきた2人の医師は、彼女の容体を知らされないままで帰国前の診断にあたった。そこで判明したのは、ジュリサが脳をひどく損傷していて、発作を繰り返すたびに悪化しているという事実であった。もし昏睡状態から回復しても、残りの生涯を植物状態で過ごすことになるとの診断結果だった。 ヒューストンに戻ったジュリサは、市の中心部にあるメソジスト病院の集中治療室に入った。事故から4か月が過ぎた9月に、病院の医師は夫妻に対して、できることはもう何もないと告げ、長期の介護をしてくれる施設への転院を勧めた。夫妻は娘を自宅で介護することに決め、リハビリテーション研修機関に3か月間入所して介護の方法を学んだ。夫妻はジュリサを家に連れ帰り、主寝室を彼女の病室にして必要な器具をすべて設置した。 最初の1年間は、夫妻は24時間勤務の看護婦を雇用することができた。2年目になるとオティリアの勤め先が保険会社を変更したために看護婦が雇えなくなった。USGFからの保険の金額では看護婦は週40時間しか雇えないため、夫妻は綿密なスケジュールを立てて24時間体制で娘の介護にあたった。ジュリサは昏睡状態を脱してはいた。たいていは眠っているか虚空を見つめているかの状態だったが、時には目を見開いたり落ち着きのない表情を見せたりし、声を上げて泣くこともあった。彼女の体重は63.5キログラムと倍ほどに増えていて、かつての面影はなくなっていた。 自宅療養を始めて3年近くたった1991年8月、ジュリサは感染症に罹って入院することになった。医師は夫妻にこのまま成り行きに任せてはどうかと勧めたが、夫妻の願いは娘をもう一度自宅に連れて帰ることであった。その願いとは裏腹にジュリサの病状は悪化してゆき、肺の中の老廃物除去のためにもう1台機械を繋がなければならない状態にまで至った。そこで夫妻は、延命措置を断念することを決意した。3日間、夫妻は娘のそばで過ごした。8月8日、医師が臨終を告げた時に、オティリアはジュリサの体を抱きかかえた。今までは人工呼吸装置のチューブが支障となって、娘を抱くこともままならなかった。ジュリサは8月10日に、ウッドローン墓地に埋葬された。
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