事故と運行停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/09 05:13 UTC 版)
汽車が運転開始後、現地の人の不満を引き起こした。彼らは、汽車は地方の安寧に影響を及ぼし、農作物や家畜の成長を阻害し、風水を破壊すると考えていた。1ヵ月後の8月3日、1人の人が汽車に轢かれて死亡した。現地の人は汽車の運転を阻止した。清朝政府の要求の下、鉄道は運行を中止した。汽車の運転士のイギリス人デビット・バンクス (David Banks) は過失致死としてイギリスの領事裁判で裁判にかけられた。彼は「汽車は、警笛を鳴らせて警告を発したが、なぜ被害者はレールから離れた後、もう一度レール上に戻ってきたのかわからない。」と言い、故意に自殺した疑いもあるとして、裁判の結果無罪釈放となった。 また、イギリス商人と満清の官吏は協議の結果、鉄道を清政府は285,000両で買収することとなり、1年半の期間で3回に分けて支払うこととなった。支払いが終了するまでは営業を継続するとした。同年12月1日に運転を再開し、1877年10月まで続いた。イギリス商人の記述によると、この時期の鉄道の運営は黒字であったという。10月20日、清政府は全ての金の支払いを終了し、最後の汽車は当日の午後に出発した。
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