主犯丸尾良昭のプロフィール
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「八鹿高校事件」の記事における「主犯丸尾良昭のプロフィール」の解説
田宮武「被差別部落の生活と闘い」(明石書店, 1986)p.223-259に主犯丸尾良昭のインタビューが収録されている。それによると、丸尾は1941年8月1日に兵庫県朝来郡中川村(のち朝来町、現・朝来市)の被差別部落に生まれ、旧姓はY(起訴猶予になった解同南但支部協議会長と同姓)。兵庫県朝来郡の中川村立中川中学校(現・朝来市立朝来中学校)に在学中、「どこそこの部落の言葉は違う」という国語教師の発言を差別発言として糾弾し、解雇に追い込んだという。中学卒業後、尼崎の自動車整備工場に5年間在職。当時、職場の先輩と乱闘事件を起こし、腎臓を悪くして1年ほど入院していた。 5年目に家庭の事情で但馬に戻り、21歳から新日本運輸に修理工として12年間在職。このうち10年間は組合活動に従事し、新入社員の教育も任され、この経験が後に部落解放運動で役立ったという。当時は地元の部落民の、ギャンブル、飲酒、セックスに溺れる自堕落な暮らしぶりを見て嫌悪感を持ったといい「わたしはもう部落の人間は嫌いでしたな。わたし自身が嫌いやった」「当時は、村の中では異端児でした」と語っている。また、みずからが部落民であることを隠したまま、同僚との部落差別的な会話に乗り、みずから部落差別発言をすることもあったという。 1965年頃、豊岡の本社工場に勤務していた当時、朝来町新井の自転車屋で機械の部品を無料で分けてくれとせびり、代金を支払うよう求められて喧嘩になり、警察に通報され、現場に駆けつけた警官から「謝罪しなければ逮捕する」と言われたのでやむなく謝罪、しかし腹の虫が収まらず、帰宅後に部落民の仲間を集めて自転車屋に押しかけ、「部落解放同盟」の名のもとに警官ともども糾弾し、自己批判書と「一切の脅迫を受けておりません」との確認書を書かせたことがある。 「えせ同和行為」も参照 和田山の支店に転勤すると丸尾が部落民であることは周知の事実となり、運転手と喧嘩した時に「われみたいなもん、なに怖いんやッ」と言われ、これを差別発言として謝罪させたことがある、という。新日本運輸に在職しつつ、1971年暮れ頃から妻と共に自らの自動車整備工場を作り始め、退職後に独立。1971年から部落の同対委員となり、1972年から南但民主化協議会青年部副部長をつとめる。 朝来町の確認会では、社会教育主事による「いやしくも(苟も)、なになに」という発言を「卑しくも」と曲解して反発し、「ほかの所では良いけれど、われわれに"いやしくも"というような言葉は使うな。それはなんの意味だあ。おまえにその言うてることが差別だと分からしたる」と糾弾したことがある。1976年8月26日の八鹿・朝来事件併合審理の刑事公判で丸尾は、検察官に向かって「あなたにも子供がいるだろう。あなたの子供が部落問題とぬきさしならない関係になったら、今のような顔はしておれない。あなたの顔から笑いが消えるぞ」と凄んだ。 丸尾はまた、上記の田宮武による1986年のインタビューでも 「糾弾闘争ではわれわれは糾弾する相手を大事にしましたわ。決して殴ったりはしなんだでね」 「いうまでもなく暴力を振るうとか相手の人権を侵すとかなかったこと。とにかくみんな立派だったのは、煙草を吸う者が一人もいなかったからね、糾弾会の場で」 「差別者、差別をしてしまった人たちにたいするわれわれの配慮ということでは、自信がありますよ」 と、八鹿裁判の事実認定とは全く相反する発言をおこなっている。 さらに丸尾は、八鹿高校事件の民事裁判の控訴審第1回(大阪高裁、1990年12月20日)で「部落出身であることを隠して結婚した兄の息子の結婚式に出席したが、…その兄から『わしが死んだら、子どもと縁を切ってやってくれ』と頼まれて『わかっとるがな』と承知した」と陳述し、「卑屈にも部落差別を容認した過去の体験を、ためらいもなく反省を加えることもなく述べた」と批判を受けた。 なお、刑事裁判の地裁審結審後、部落解放同盟兵庫県連の内部で対立・抗争が激化し、この結果、丸尾は県連書記次長や執行委員から「きわめて陰湿な人間で、八鹿事件では黙秘権どころか警察の取調べに対し仲間のことを口軽くしゃべった、自己批判せよ」(1983年5月20日付の声明文)などと公然と批判された。
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