主力軍の対決(シラ・オルドの戦い)
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「主力軍の対決(シラ・オルドの戦い)」の解説
サラルドゥの戦いの後、詳細は不明であるが「ブルグトゥ・ボルダク(不里古都伯塔哈)」の地にてクビライ軍とナヤン軍はぶつかり、再び敗走したナヤン軍を追うことで遂にクビライ軍はナヤン自らが率いる本隊と接触した。『元史』などの漢文史料が伝えるところによると、クビライ軍がナヤン自らが率いる反乱軍本隊と接触したのはシラ・ムレン河畔の「シラ・オルド」であったという。前述したように、クビライによる情報封鎖によってナヤン軍は直前までクビライの接近に気づけず、また油断したナヤンは随伴していた妻妾と歓楽に耽っていたため、クビライ軍が現れると慌てて武器を執り戦列を整えた。ナヤン軍を発見したクビライ軍はモンゴル軍伝統の右翼・左翼・中軍の3軍編成をとり、両翼を上げてナヤン軍を包囲せんとした。『東方見聞録』『集史』が一致して伝える所によるとこの時クビライは象の上に設えた駕籠に乗って出陣したとされ、これは『元史』巻78に「象轎」と記されるもので、東南アジア諸国から献上された象を利用したものであった。また、『東方見聞録』によるとクビライは頭上に日月を描いた皇帝旗を掲げたとされるが、これは『元史』巻79に「日旗」「月旗」と記されるもので、青地に赤い炎を描き、その上に日/月を描いたものである。一方、前述したようにナヤンはネストリウス派キリスト教徒として洗礼を受けていたため、ナヤン軍は十字架を掲げていた。 この時のクビライ軍対ナヤン軍の戦闘については、『東方見聞録』が最も詳細な記述を残している。 ……今やカアンはこのように軍勢を分かってナヤンの陣営の周囲に配置し終わり、まさに合戦に及ばんとしていた。これに対しナヤン及びその部下たちは、カアンの軍にその陣営をすっかり包囲されたのを知ると全く狼狽したが、大急ぎで武器を執って急ごしらえをし、なんとか混乱を防いでうまく隊伍を整えた。両軍ともに今や準備を終わり戦端の開始を待つぱかりである。するとこの時、衆楽がいっせいに鳴り渡り、ラッパが吹奏され、衆人の声高らかに唱歌するのが聞こえてくるはずである。これはタルタール人の習慣で、合戦に勢ぞろいして戦列が整い終わると、まず司令官が合戦の合図として打ち鳴らす「ナッカール」、すなわち半円鼓の響くのを待って鋒を交えるのであるが、その間、彼らは衆楽を奏で高声に合唱するのが常だからである。かくて両軍の間にひとしく奏楽・合唱の声が高まったのである。両軍ともに万般の準備が整った頃、まずカアンの「ナッカール」が右翼から始まり、次いで左翼に轟き渡った。いったん「ナッカール」が響き渡れば、もはやなんらの猶予も許されない。両軍はたがいに弓・槍・鎚矛・長槍(ただし長槍はごくわずかしか使用されない)を手順にして襲いかかった。歩兵も又弩そのほかの武器を執って戦う。合戦はいよいよ開始されたが、その様相はいかがかというと、熾烈を窮め言語に絶する懐惨さであった。飛びかう矢は雨のごとく空を覆い、人馬は次々と倒れて地に敷き、阿鼻叫喚さながらの騒擾は神雷もために聞こえぬばかりであった。ところでナヤンは洗礼を受けたキリスト教徒であったから、このたびの合戦に際しても十字架を軍旗の上に掲げていた。合戦の模様はこれ以上の贅言を要しなかろうが、とにかく空前絶後の激烈さであった。これほど多数の軍勢が、ことに多数の騎兵が一戦場に戦うなどとは、われわれの時代にはもう二度とあるまい。両軍ともに戦死者の莫大なこともまた驚くべき数に達したことである。合戦は早朝から始まって昼まで続いた。それというのも、ナヤンの部下たちが主師の寛大な人となりになつくのあまり、死をあえてしても退くことをがえんぜず、全く一身を忘れての働きを演じたからである。しかしながら究極の勝利はカアンに帰した。…… — マルコ・ポーロ『東方見聞録』、訳文は愛宕1970,183-184頁より引用 『元史』などの漢文史料も断片的ながらこの戦闘の苛烈さを伝えており、『元史』巻156によると一時クビライの乗る戦象にナヤン軍の矢が集中し、漢人部隊を率いる董士選らが突撃し敵軍を突き崩したためクビライは難を逃れる場面があったという。ナヤン軍が総崩れとなるとナヤン自身も逃れようとしたが、アスト人将軍ウワズらの追撃を受けて捕らえられた。クビライは後述するように投降した者達は寛大に扱った一方、叛乱のシンボルたるナヤンに対しては速やかなる処刑を決定し、『東方見聞録』によるとナヤンは「絨毯に包まれた上で所構わず打ちのめされて殺された」という。このような「血を出さずに殺す(モンゴル語: Čisu ülü γarγan ala' ul)」処刑方法は古くからある「貴人は血を流して処刑してはならない」というモンゴルの慣習に則ったもので、チンギス・カンのライバルであったジャムカや、オグルガイミシュ皇后が同様の方法で処刑されたことが知られている。 こうしてクビライ軍が「短期間に3戦して(サラルドゥ、ブルグトゥ・ボルダク、シラ・オルド)3勝し」ナヤン本軍を粉砕した結果、各地で反乱軍の別働隊が未だ活動していたとはいえ、戦いの趨勢は完全に決した。ナヤン軍との決戦を終えたクビライ軍がシラ・オルドにてナヤン軍の輜重を接収し終えたのが6月乙亥日のことで、クビライの出陣から僅か1か月余り後のことであった。
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