主力軍の対決とは? わかりやすく解説

主力軍の対決(シラ・オルドの戦い)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)

ナヤン・カダアンの乱」の記事における「主力軍の対決(シラ・オルドの戦い)」の解説

サラルドゥの戦いの後詳細不明であるが「ブルグトゥ・ボルダク(不里古都伯塔哈)」の地にてクビライ軍とナヤン軍はぶつかり、再び敗走したナヤン軍を追うことで遂にクビライ軍はナヤン自らが率い本隊接触した。『元史』などの漢文史料伝えところによると、クビライ軍がナヤン自らが率い反乱軍本隊接触したのはシラ・ムレン河畔の「シラ・オルド」であったという。前述したように、クビライによる情報封鎖によってナヤン軍は直前までクビライ接近に気づけず、また油断したナヤン随伴していた妻妾歓楽耽っていたため、クビライ軍が現れる慌てて武器執り戦列整えたナヤン軍を発見したクビライ軍はモンゴル軍伝統右翼左翼中軍の3軍編成をとり、両翼上げてナヤン軍を包囲せんとした。『東方見聞録』『集史』が一致して伝える所によるとこの時クビライは象の上設え駕籠乗って出陣したとされ、これは『元史』巻78に「象轎」と記されるもので、東南アジア諸国から献上された象を利用したものであったまた、東方見聞録』によるとクビライ頭上日月描いた皇帝旗を掲げたとされるが、これは『元史』巻79に「日旗」「月旗」と記されるもので、青地に赤い炎を描きその上に日/月を描いたのである一方前述したようにナヤンネストリウス派キリスト教徒として洗礼受けていたため、ナヤン軍は十字架掲げていた。 この時のクビライ軍対ナヤン軍の戦闘については、『東方見聞録』が最も詳細な記述残している。 ……今やカアンこのように軍勢分かってナヤン陣営周囲配置し終わり、まさに合戦に及ばんとしていた。これに対しナヤン及びその部下たちは、カアンの軍にその陣営をすっかり包囲されたのを知ると全く狼狽したが、大急ぎ武器を執って急ごしらえをし、なんとか混乱防いでうまく隊伍整えた両軍ともに今や準備終わり戦端開始を待つぱかりである。するとこの時、衆楽がいっせいに鳴り渡りラッパ吹奏され、衆人声高らかに唱歌するのが聞こえてくるはずである。これはタルタール人の習慣で、合戦勢ぞろいして戦列整い終わると、まず司令官合戦合図として打ち鳴らす「ナッカール」、すなわち半円鼓の響くのを待って鋒を交えるのであるが、その間、彼らは衆楽を奏で高声合唱するのが常だからである。かくて両軍の間にひとしく奏楽合唱の声が高まったのである両軍ともに万般準備整った頃、まずカアンの「ナッカール」が右翼から始まり次いで左翼轟き渡った。いったん「ナッカール」が響き渡れば、もはやなんらの猶予許されない両軍はたがいに弓・鎚矛長槍(ただし長槍ごくわずかしか使用されない)を手順にして襲いかかった歩兵も又そのほか武器を執って戦う。合戦はいよいよ開始されたが、その様相はいかがかというと熾烈窮め言語に絶する惨さであった飛びかう矢はのごとく空を覆い人馬次々と倒れて地に敷き阿鼻叫喚さながら騒擾は神もために聞こえぬばかりであった。ところでナヤン洗礼受けたキリスト教徒であったから、このたび合戦に際して十字架軍旗の上掲げていた。合戦模様これ以上贅言要しなかろうが、とにかく空前絶後の激烈であったこれほど多数軍勢が、ことに多数騎兵一戦場に戦うなどとは、われわれの時代にはもう二度とあるまい両軍ともに戦死者莫大なこともまた驚くべき数に達したことである。合戦早朝から始まって昼まで続いたそれというのもナヤン部下たちが主師の寛大な人となりになつくのあまり、死をあえてしても退くことをがえんぜず、全く一身忘れて働き演じたからである。しかしながら究極勝利カアン帰した。…… — マルコ・ポーロ東方見聞録』、訳文愛宕1970,183-184頁より引用元史』などの漢文史料断片的ながらこの戦闘苛烈さを伝えており、『元史』巻156によると一時クビライ乗る戦象ナヤン軍の矢が集中し漢人部隊率い董士選らが突撃し敵軍突き崩したためクビライ難を逃れる場面があったという。ナヤン軍が総崩れとなるとナヤン自身逃れようとしたが、アスト将軍ウワズらの追撃受けて捕らえられた。クビライ後述するように投降した者達は寛大に扱った一方叛乱シンボルたるナヤンに対して速やかな処刑決定し、『東方見聞録』によるとナヤンは「絨毯包まれ上で所構わず打ちのめされ殺された」という。このような「血を出さずに殺す(モンゴル語: Čisu ülü γarγan ala' ul)」処刑方法古くからある「貴人は血を流して処刑してはならない」というモンゴル慣習則ったもので、チンギス・カンライバルであったジャムカや、オグルガイミシュ皇后同様の方法処刑されたことが知られている。 こうしてクビライ軍が「短期間に3戦して(サラルドゥ、ブルグトゥ・ボルダク、シラ・オルド)3勝し」ナヤン本軍粉砕した結果各地反乱軍別働隊未だ活動していたとはいえ戦い趨勢は完全に決したナヤン軍との決戦終えたクビライ軍がシラ・オルドにてナヤン軍の輜重接収し終えたのが6月乙亥日のことで、クビライ出陣から僅か1か月余り後のことであった

※この「主力軍の対決(シラ・オルドの戦い)」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
「主力軍の対決(シラ・オルドの戦い)」を含む「ナヤン・カダアンの乱」の記事については、「ナヤン・カダアンの乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「主力軍の対決」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「主力軍の対決」の関連用語

1
2% |||||

主力軍の対決のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



主力軍の対決のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのナヤン・カダアンの乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS