三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年
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「中国攻め」の記事における「三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年」の解説
「三木合戦」も参照 前年の平田砦の戦い以降、孤立無援となった別所方では兵糧が欠乏して三木城内からは餓死者が出はじめた。天正8年(1580年)1月、正月であるにもかかわらず城内から煙がたたないのを見た秀吉は、1月6日早朝、三木城の背後の八幡山への攻撃を開始した(鷹の尾砦の戦い)。八幡山には、三木城を南から見下ろす鷹の尾砦があり、長治の弟別所友之(彦進)が詰めていた。秀吉の攻撃に対し300余名が抗戦したが、充分な食糧のない兵は充分な武具も付けずに戦わざるをえなかったため、多くは討死に、老将36名は自害して砦は失われた。 1月17日、丸裸になった三木城は陥落し、別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵助命を条件に自害して、2年におよぶ三木合戦が終わった。なお、それに前後して、別所氏に与力していた魚住城(明石市)・高砂城(高砂市)・御着城(姫路市)も陥落している。なお、秀吉は天正13年(1585年)、長治の叔父別所重宗に但馬城崎城(兵庫県豊岡市)1万2000石をあたえている。 いっぽう、大坂では閏3月5日に信長と顕如とが正親町天皇の勅命によって和睦し石山合戦が終了して、中国戦線にも転機がおとずれた。戦後、顕如は紀伊雑賀(和歌山市)に去り、信長は摂津・和泉の両国で国内諸城の破棄(城割)を命じている。しかし講和に反対した顕如の子教如は、大坂に残って諸国に檄を発して一向宗門徒の再挙をはかった。教如の蜂起に対しては、足利義昭は毛利輝元、小早川隆景に対して「新門跡」(教如)を支援するよう命じており、教如も義昭に謝意を表明していることから、両者が提携していたことはほぼ確実視される。しかし、その教如も形勢不利とみて7月に信長と和睦した後、本願寺に火を放って雑賀に退去した。 東播磨およびその東方が安全となった秀吉は、閏3月29日から4月24日まで、播磨一向一揆の拠点であった英賀城(姫路市)を攻略してここを占拠、引き続いて赤松氏の一族宇野政頼・宇野祐清父子の立てこもる長水山城(宍粟市)も落城させて一揆を解体、播磨を再び平定して、その支配を強化した。4月からは信長の命によって播磨の検地をおこない、手狭になった姫路山の近くに新城を築いて居城(姫路城)とし、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人・百姓を呼び寄せて、城下町を整備した。以後、秀吉は播州姫路を拠点に毛利氏との直接対決を迎えることとなった。 6月には、宇喜多直家と連合して美作攻略を開始し、枡形城の城主で毛利方の福田盛雅が守る祝山城(医王山城とも。岡山県津山市)を攻めた(祝山城の戦い)。かつては浦上宗景の被官で、当初は毛利氏と結ぶことによって備前国内での勢力を伸張させた宇喜多直家は、今や織田方の先鋒となって山陽地方における毛利氏の前線を切り崩していった。 山陰方面では、朝来郡の竹田城を根拠として秀長部隊を主力とする羽柴勢によって但馬攻略が本格的に再開され、5月16日、山名堯熙の守る有子山城(兵庫県豊岡市)が落城した。その父で但馬守護山名祐豊はその中で死去、5月21日には山名氏の本城出石城(豊岡市)も落城した。これにより但馬は再び平定され、秀長には出石城があたえられた。同月、因幡にも侵攻し、第一次鳥取城攻めがおこなわれたが、その際、鳥取西方の鹿野城(鳥取県鳥取市)も攻略された。戦後、秀吉は因幡進攻計画を練り直して若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせた。これにより、穀物価格は急騰したという。 なお、この年の8月、信長は本願寺攻撃の責任者であった佐久間信盛を砦にこもって無為に過ごしたとして、「武篇道ふがいなし」と断じ、高野山に追放した。いっぽうで、明智光秀・羽柴秀吉・池田恒興のはたらきについては「天下の覚え」「天下の面目」と激賞した。また、戦国時代史の研究者谷口克広は、羽柴軍が「中国方面軍」へと昇格したのは、播磨・但馬を統一した天正8年とみるのが妥当ではないかとしている。
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