三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年とは? わかりやすく解説

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三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:40 UTC 版)

中国攻め」の記事における「三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年」の解説

三木合戦」も参照 前年平田砦の戦い以降孤立無援となった別所方では兵糧欠乏して三木城内からは餓死者が出はじめた天正8年1580年1月正月であるにもかかわらず城内から煙がたたないのを見た秀吉は、1月6日早朝三木城背後八幡山への攻撃開始したの尾砦の戦い)。八幡山には、三木城を南から見下ろすの尾砦があり、長治の弟別所友之(彦進)が詰めていた。秀吉攻撃対し300余名抗戦したが、充分な食糧のない兵は充分な武具付けずに戦わざるをえなかったため、多く討死に老将36名は自害して砦は失われた1月17日丸裸になった三木城陥落し別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵助命条件自害して、2年におよぶ三木合戦終わった。なお、それに前後して別所氏与力していた魚住城明石市)・高砂城(高砂市)・御着城姫路市)も陥落している。なお、秀吉天正13年1585年)、長治叔父別所重宗但馬城崎城(兵庫県豊岡市1万2000石をあたえている。 いっぽう大坂では閏3月5日信長顕如とが正親町天皇勅命によって和睦し石山合戦終了して中国戦線にも転機おとずれた。戦後顕如紀伊雑賀和歌山市)に去り信長摂津和泉両国国内諸城破棄城割)を命じている。しかし講和反対した顕如の子教如は、大坂残って諸国発して一向宗門徒再挙はかった教如蜂起に対しては、足利義昭毛利輝元小早川隆景に対して新門跡」(教如)を支援するよう命じており、教如義昭謝意表明していることから、両者提携していたことはほぼ確実視される。しかし、その教如形勢不利とみて7月信長和睦した後、本願寺火を放って雑賀退去した。 東播磨およびその東方が安全となった秀吉は、閏3月29日から4月24日まで、播磨一向一揆拠点であった英賀城姫路市)を攻略してここを占拠引き続いて赤松氏一族宇野政頼宇野祐清父子立てこもる長水山城宍粟市)も落城させて一揆解体播磨を再び平定して、その支配強化した4月からは信長の命によって播磨検地おこない手狭になった姫路山の近く新城築いて居城姫路城)とし、浄土真宗寺内町だった英賀から町人百姓呼び寄せて城下町整備した以後秀吉播州姫路拠点毛利氏との直接対決迎えることとなった6月には、宇喜多直家連合して美作攻略開始し枡形城城主毛利方の福田盛雅が守る祝山城(医王山城とも。岡山県津山市)を攻めた祝山城の戦い)。かつては浦上宗景被官で、当初毛利氏と結ぶことによって備前国内での勢力伸張させた宇喜多直家は、今や織田方の先鋒となって山陽地方における毛利氏前線切り崩していった。 山陰方面では、朝来郡竹田城根拠として秀長部隊を主力とする羽柴勢によって但馬攻略本格的に再開され5月16日山名堯熙の守る有子山城兵庫県豊岡市)が落城した。その父で但馬守山名祐豊その中で死去5月21日には山名氏本城出石城豊岡市)も落城した。これにより但馬は再び平定され、秀長には出石城あたえられた。同月因幡にも侵攻し第一次鳥取城攻めおこなわれたが、その際鳥取西方鹿野城鳥取県鳥取市)も攻略された。戦後秀吉因幡進攻計画練り直し若狭商人因幡の米や麦を買い占めさせた。これにより、穀物価格急騰したという。 なお、この年8月信長本願寺攻撃責任者であった佐久間信盛を砦にこもって無為に過ごしたとして、「武篇ふがいなし」と断じ高野山追放したいっぽうで明智光秀羽柴秀吉池田恒興はたらきについては「天下覚え」「天下面目」と激賞したまた、戦国時代史の研究者谷口克広は、羽柴軍が「中国方面軍」へと昇格したのは、播磨但馬統一した天正8年とみるのが妥当ではないかとしている。

※この「三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年」の解説は、「中国攻め」の解説の一部です。
「三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年」を含む「中国攻め」の記事については、「中国攻め」の概要を参照ください。

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