三和銀行の行風
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メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する都銀大手6行(三和・東京三菱・第一勧業・さくら・住友・富士)の中で、三和銀行は唯一地方銀行の業容が拡大した銀行であった。このため、財閥系や特殊銀行を起源とする他行に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。これらは、必然的にリクルーターを通じて学閥内の繋がりが密接になり人事抗争に繋がっていく事になった。他行はこれを「三和のDNA」と蔑称した。また、2019年1月4日の朝日新聞の記事では、実力主義をかかげ、「野武士集団」と呼ばれていたことが触れられている。 特に渡辺滉頭取(一橋大学卒)時代には企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に一橋大・京都大学出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は高杉良の経済小説『金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ最後の頭取となる沖原隆宗が居た)を補佐役として登用、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で都市銀行トップを実現した。 こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(東京大学卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等陰惨を極めた。 結局両者が辞任し、中間派の室町鐘緒(名古屋大学卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。 室町の後任は秘書室長経験者だった寺西正司(大阪大学卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(慶應義塾大学卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し三和銀行時代にフィナンシャルワンを立ち上げるなどかつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をアプラスに転出させ、また東海で合併を担当した藤田泰久常務(京都大卒)に事実上退行を迫るなど、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。 前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任。沖原隆宗が取締役付きでないにも関わらず常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる」などと述べ不良債権処理の断行を示唆した。 しかし、人事面で見れば寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を日本信販会長へ、常務の中村をJCB専務への転出を決定、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である佐野極(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。 こうした旧態依然たる人事施策は再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなくUFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊、派閥抗争の余裕すら失っていくこととなった。
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