ワーナーとの確執、改名(1990–1999)
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「プリンス (ミュージシャン)」の記事における「ワーナーとの確執、改名(1990–1999)」の解説
1990年、『Purple Rain』の続編となる映画『Graffiti Bridge』を制作するが興業的には振るわなかった。同名のサウンドトラックではザ・タイム、ジョージ・クリントン、テヴィン・キャンベル(英語版)、メイヴィス・ステイプルズをフィーチャーしているが、チャート6位、売上50万枚と再び低迷する。 1991年には、前年のツアーバンドをザ・ニュー・パワー・ジェネレーション(略称NPG。NPGは現在も存続するが、結成時のメンバーは残っておらず、特定の音楽コンセプトの表象というよりは、バックバンドの代名詞となっている。)と命名し、プリンス・アンド・ザ・ニュー・パワー・ジェネレーションとして『Diamonds and Pearls』を発表。全米チャートで3位、売上200万枚。シングルカットされた「Cream」が1位、「Diamonds and Pearls」が3位を獲得している。 1992年には、独自にデザインしたシンボルマークをタイトルにしたアルバムをリリースする。発音不明のため、本国アメリカでは"Symbol"と呼ばれ、日本では『ラブ・シンボル』と邦題がつけられた。全米5位、100万枚のセールスを記録した。 1993年、ワーナー・ブラザースと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザースの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品に規制が掛かり、自分が望むような自由な活動が出来ない事に不満が溜まり、お互いの信頼関係が崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードがプリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖、それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立した。その後、ワーナー・ブラザースとの契約消化の為、ハイペースでアルバムを発表し続ける事になる。 プリンスはその名前を捨てることとなった。1994年発売の『Come』において「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958 - 1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボルを自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたもので、錬金術の記号にルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対しての読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声で伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。 この時期から2000年代にかけて、プリンスは多くのライヴをこなしている。また、ライヴ会場は大きなアリーナだけではなく、小さなクラブで深夜にごく少数の観客を集めて行われている。ときおりペイズリー・パーク・スタジオでも行われたそれは、一般にアフターショウと呼ばれる、入場者が5人から2500人というような小規模なライヴは、1980年代中盤から積極的に行われており、コンセプト上メインのツアーではやらないようなカバーや、気ままなジャムセッション、リサーチもかねた新曲が披露され、公式に一部ビデオ化もされている。 1995年に『The Gold Experience」をリリースするが、ワーナー・ブラザースとの関係は悪化の一途をたどる。(このアルバムに収録された「Endorphinmachine」は格闘技大会 K-1 WORLD GP シリーズのオープニング・テーマに使用され、日本でプリンスを知らない層にも幅広く有名になった。) 1996年の『Chaos And Disorder』のジャケットは、踏みつけられたアルバム「1999」のレコード盤(瞳のイラスト)に涙が書かれ、その涙がワーナー・ブラザースのマークであるという意味深なデザインだった。ワーナー・ブラザース時代のオリジナルアルバムはこれが最後となった。 同年、内向的かつ攻撃的であった前作のイメージとはうって変わって、大手レコード会社の契約から解放されたイメージの『Emancipation』を(EMIと1枚のみの配給合意)リリース。東京でワールドプレミアを開催した。ワーナーから解放されたことを記念し、この時期には積極的にTVに出演し、プロモーションを行った。人気TV番組「マペット放送局」にも出演し話題となる。なお、マペット放送局はNHKで放送された。 1999年、ワーナー・ブラザースから、最後の契約枚数消化の為に未発表曲集『The Vault〜 Old Friends 4 Sale』が発表された。同じ年にアリスタと配給合意しアルバム『Rave Un2 The Joy Fantastic』を発表。プロデューサーとしてプリンスの名前がクレジットされた。
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