ワーナーとの確執、改名とは? わかりやすく解説

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ワーナーとの確執、改名(1990–1999)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:45 UTC 版)

プリンス (ミュージシャン)」の記事における「ワーナーとの確執、改名(19901999)」の解説

1990年、『Purple Rain』の続編となる映画Graffiti Bridge』を制作する興業的には振るわなかった。同名サウンドトラックではザ・タイムジョージ・クリントンテヴィン・キャンベル英語版)、メイヴィス・ステイプルズフィーチャーしているが、チャート6位、売上50万枚再び低迷する。 1991年には、前年のツアーバンドをザ・ニュー・パワー・ジェネレーション(略称NPGNPGは現在も存続するが、結成時のメンバー残っておらず、特定の音楽コンセプト表象というよりは、バックバンド代名詞となっている。)と命名し、プリンス・アンド・ザ・ニュー・パワー・ジェネレーションとして『Diamonds and Pearls』を発表全米チャート3位売上200万枚シングルカットされた「Cream」が1位、「Diamonds and Pearls」が3位獲得している。 1992年には、独自にデザインしたシンボルマークタイトルにしたアルバムリリースする発音不明のため、本国アメリカでは"Symbol"と呼ばれ日本では『ラブ・シンボル』と邦題つけられた。全米5位、100万セールス記録した1993年ワーナー・ブラザースと再契約を交わす。アルバム6分の長期契約であった。その契約金は、当時音楽史最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザース副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200ドル報酬金受取るという破格条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品規制掛かり自分が望むような自由な活動出来ない事に不満が溜まりお互い信頼関係崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードがプリンス以外のアーティストセールス低迷などを理由閉鎖、それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコード設立したその後ワーナー・ブラザースとの契約消化の為、ハイペースアルバム発表し続ける事になる。 プリンスはその名前を捨てることとなった1994年発売の『Come』において「プリンスの死」を宣言しこの際アーティスト表記正確にPrince 1958 - 1993である)、1992年アルバムのタイトルであるシンボルを自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽象徴する推測されているラッパ思わせる記号くみあわせたもので、錬金術記号ルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対して読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマーク指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンス呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られアーティスト)呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれプリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。 この時期から2000年代にかけて、プリンス多くライヴこなしている。また、ライヴ会場大きなアリーナだけではなく小さなクラブ深夜にごく少数観客集めて行われている。ときおりペイズリー・パーク・スタジオでも行われたそれは、一般にアフターショウと呼ばれる入場者が5人から2500人というような小規模なライヴは、1980年代中盤から積極的に行われており、コンセプトメインツアーはやらないようなカバーや、気ままジャムセッションリサーチもかねた新曲披露され、公式に一部ビデオ化もされている。 1995年に『The Gold Experience」をリリースするが、ワーナー・ブラザースとの関係は悪化の一途をたどる。(このアルバム収録された「Endorphinmachine」は格闘技大会 K-1 WORLD GP シリーズオープニング・テーマ使用され日本プリンス知らない層にも幅広く有名になった。) 1996年の『Chaos And Disorder』のジャケットは、踏みつけられたアルバム1999」のレコード盤(瞳のイラスト)に涙が書かれ、その涙がワーナー・ブラザースマークであるという意味深なデザインだった。ワーナー・ブラザース時代オリジナルアルバムはこれが最後となった同年内向的かつ攻撃的であった前作イメージはうって変わって大手レコード会社契約から解放されイメージの『Emancipation』を(EMI1枚のみ配給合意リリース東京ワールドプレミア開催したワーナーから解放されたことを記念し、この時期には積極的にTV出演しプロモーション行った人気TV番組マペット放送局」にも出演し話題となる。なお、マペット放送局NHK放送された。 1999年ワーナー・ブラザースから、最後契約枚数消化為に未発表曲集The VaultOld Friends 4 Sale』が発表された。同じ年にアリスタ配給合意しアルバムRave Un2 The Joy Fantastic』を発表プロデューサーとしてプリンスの名前がクレジットされた。

※この「ワーナーとの確執、改名(1990–1999)」の解説は、「プリンス (ミュージシャン)」の解説の一部です。
「ワーナーとの確執、改名(1990–1999)」を含む「プリンス (ミュージシャン)」の記事については、「プリンス (ミュージシャン)」の概要を参照ください。

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