ワーナー・ブラザース時代
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「バッドフィンガー」の記事における「ワーナー・ブラザース時代」の解説
『アス』セッションが終了した6週間後に、バンドは彼らの最初のワーナーからのリリースのためスタジオに入った。そのアルバム『涙の旅路(原題:Badfinger)』からの「Love Is Easy(イギリス)」、「I Miss You(アメリカ)」のシングルは、チャートに達しなかった。しかしバンドは数回のアメリカ・ツアーの結果、何とかアメリカのファンのサポートを維持する。 最後のアメリカ・ツアーに続いてバンドはコロラドのCaribou Ranchレコーディング・スタジオにて『素敵な君(原題:Wish You Were Here)』をレコーディングする。ローリング・ストーン誌などのアルバム・レビューでは『素敵な君』に対しなかなか好意的であった。 しかしバンド管理と金銭を中心とした内部の摩擦は2、3年間の間にバンド内で膨張し続けていく。ジョーイの妻はスタンとの完全な契約破棄を進言するも他のメンバー、特にピートを説得するには至らなかった。 バンドが1974年10月のイギリス・ツアーのためリハーサルを始めるすぐ前にピートは突然バンドを脱退する。一時、「ギタリスト/キーボード奏者」のボブ・ジャクソンが彼の後任となるが、1974年のツアーが始まるすぐ前にピートは再びバンドに加わる。その時ボブはフルタイムの「キーボード奏者」として残ることとなった。ツアーの後に、それらの管理状況で意見の不一致についてバンドを辞めたのは結局ジョーイであった。 ピート、トム、ボブ、およびマイクは、『素敵な君』がリリースされたすぐ後に次のアルバムをレコーディングするために再び集まった。アルバム『Head First』は1974年12月のアップル・スタジオにて2週間でレコーディングされた。ワーナー・ブラザースの出版事業部は、バッドフィンガー・エンタープライズInc.(グループの管理会社)とスタンに対して訴訟を準備していたため、『Head First』のテープを受け入れるのを拒否した。ボブは1974年12月15日にエンジニアのフィル・マクドナルドによって終了したラフミックスのコピーを保有したが、このテープは2000年の『Head First』リリースのベースとなったものである。 1974年12月にバッドフィンガー・エンタープライズInc.に対してワーナー・ブラザースの出版事業部によって訴訟が着手される(1979年のカリフォルニア法廷まで継続)。問題はスタンが管理していたアメリカにおける10万ドルの消滅であった。 ワーナー・ブラザースがお金の存在に関して尋ねるも、スタンはこの要求を拒否。これによりワーナー・ブラザースによるバッドフィンガーに係るリリースが一切止められ、1975年前半にはレコード店の棚から全て引き上げられる。 バンドとスタンとの契約ではバッドフィンガー・エンタープライズInc.に対するロイヤリティがスタンによってコントロールされた会社に全て入ることになっていた。またメンバーに対する給料はその会社から支払われていたが、それらは収益に対し酷く不充分なものであった。 ワーナー・ブラザース訴訟が起こされたすぐ後に、スタンは給料をバンドのメンバーに送金するのを中止する。このことは極貧の財政状況であったピートを苦しめた。 絶望のあまりピートは、身重のガールフレンドを残し1975年4月24日に「スタンを道連れにする」という意味深な遺書を書いて首吊り自殺を遂げる。娘が誕生したのは彼の死の一ヶ月後であった。 これにより、バンドは一時終焉を迎えた。
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