モスクワとの戦いとは? わかりやすく解説

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モスクワとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/28 04:14 UTC 版)

ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)」の記事における「モスクワとの戦い」の解説

モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」も参照 ミハイル大公就任喜ばないモスクワドミトリイトヴェリ大軍送り、それに抗することの出来ないミハイルリトアニア逃亡する当時リトアニア大公アルギルダスは、途中スモレンスク及びブリャンスク軍を加えミハイルと共にモスクワ向かい11月にトロスナ川でドミトリイ前衛部隊壊滅させ、モスクワ接近、これを包囲する大公ドミトリイクレムリン立て籠もり結局三日間の包囲に耐えきった。しかし、年代記によると、モスクワ近郊は、モンゴルの時以上に荒らされたという。最終的に両者和解し、ここでやっと、ミハイル従兄弟セミョン遺贈確定する大公ドミトリイは、その後裏切り名目スモレンスクブリャンスク攻めることになる。 しかしミハイルは、モスクワとの主導権争いがまだ続くことを予見し、1370年トヴェリの町の外壁強化する。まさに予想通り同年モスクワドミトリイ和約破棄して軍をトヴェリ送った。だがミハイルリトアニア逃亡トヴェリモスクワ軍により荒廃させられることになる。同年9月には、ドミトリイ自身出陣し、ミクリン及びズブツォフ占領する当時リトアニア大公アルギルダスドイツ騎士団との戦い忙殺されており、トヴェリ支援に向かうことが出来なかった。ミハイルは、ここで、ハン国援助求めることにする。当時実権握っていたママイは、分割して統治するというルーシ支配大原則則りミハイルウラジーミル大公ヤルルィク与える。モスクワ大公ドミトリイミハイル捕らえるよう命じるが、ミハイル追っ手の手逃れ再度アルギルダス支援求めリトアニアに行く。11月大公アルギルダス、弟ケーストゥティス麾下大軍ヴォロコラムスク近郊荒廃させた後、モスクワ包囲する一週間包囲の後、セルプホフウラジーミルによってモスクワ解放され最終的にアルギルダスドミトリイ和約締結するミハイルウラジーミル大公の座から降りることを余儀なくされた。 何も得るところのなかったミハイル公は、1371年初頭再度ハン国訪れ状況改善求めたママイは、再度彼に大公位を認めたが、しかし軍事援助断固として拒否した。これにより、ミハイル立場は一層悪化したと言えるモスクワドミトリイミハイル失策かこつけて全ルーシに、ミハイル非協力的態度をとるよう命令を出す。反モンゴル感情利用したこの命令効果発揮しその結果ミハイルウラジーミルの町への入場住民から拒否された。ミハイル同行していたママイ使節サルィホジャは、ペレヤスラヴリ・ザレスキーの町に軍を終結させていたモスクワドミトリイに、ママイ命令に従うよう命じるが、ドミトリイはこれを拒絶する加えてここでドミトリイ懐柔策により、サルィホジャはミハイル放ったまま、ハン国帰還してしまう。ミハイルウラジーミルからヴェジェツキー・ヴェルフに、そしてノヴゴロド目指すがそれは適わず、トヴェリ転進する。ミハイル息子イヴァンハン国派遣しモスクワドミトリー訴えた。そこでドミトリイハン国向かい、サルィホジャの援助受けて自分正当化し大公ヤルルィクを得ることに成功する次いでハン国からミハイル対し、ここに至って大公位から降りるよう伝令が来た。 この頃ドミトリイ不在にあたりミハイルモスクワ攻撃しコストロマウグリチ、ヴェジェツキー・ヴェルフを占領するこうした卑怯な行為に、ノヴゴロドさえもモスクワ同盟するドミトリイ帰国後、まずヴェジェツキー・ヴェルフを解放する。しかし、リャザン攻撃に軍を割いている間に、ミハイルはキストマを攻撃ドミトロフ包囲ペレヤスラヴリ・ザレスキー占領する(1371/1372年の冬)。カシン公ミハイルモスクワ逃亡しドミトリイ同盟したことを聞くやいなやトヴェリ大公ミハイルカシン占領し次いでトルジョーク向かい自分代官をおいて去る。ノヴゴロド軍がこれを解放すると、再度ミハイルトルジョーク攻撃し今度トルジョーク破壊した。そしてついにアルギルダスと共にまたもやモスクワ攻撃を行うまでに至る。今回ドミトリイ攻撃事前に察知し、リュベツク付近両軍衝突したモスクワ軍は最初の衝突リトアニア軍前衛打ち破りアルギルダス後退余儀なくされるその後数日間対峙の後、二ヶ月ほどの休戦締結される。これによりミハイル大公国各地配され代官撤収義務けられる。彼はトヴェリに戻る。この頃彼のであったカシン公ミハイル死去休戦期間が終わろうとする頃、ミハイルトヴェリ回り堀と土塁巡らせ始める。しかし軍事活動は起こらなかった。当時モスクワ軍はオカ川ハン国の軍の攻撃備えていた。1373年末に、モスクワトヴェリ平和条約を結び、当時モスクワ捕らわれていたミハイル息子イヴァンモスクワ身代金取った上で解放するミハイルは、各地代官引き上げさせた。 この年最後モスクワ百人長の息子ヴェリヤミノフと商人ネコマトがモスクワからトヴェリ逃亡してくる。これが再度モスクワトヴェリとの衝突原因になる。ヴェリヤミノフとネコマトはトヴェリハン国陰謀巡らしその結果またもやハン国ミハイルウラジーミル大公ヤルルィク与えた一方ミハイル自身支援求めてリトアニア訪れた7月ミハイルリトアニアハン国助け借りてモスクワとの戦争開始決断する同時にトルジョークウグリチに軍を送った。しかし、リトアニアハン国約束果たさずミハイル公は孤立無援になり、全北ルーシ敵に回すことになる。ドミトリイトヴェリ包囲し、その同盟者がミクリン等、他の町を焼いたトヴェリ自体ドミトリイは落とすことが出来ず、町は長期にわたり包囲された。この頃ノヴゴロド軍がズブツォフスターリツァ等を占拠アルギルダス若干援軍トヴェリ送ったが、敵方の軍の大きさおののき援軍戻ってしまった。ミハイル諦め主教エフフィミーの仲介モスクワ和平結んだ。彼は、厳しい条件をのまざるを得なかった。ウラジーミル大公位に対す要求取り下げカシン独立の承認ミハイルカシンから購入した町の返還トルジョークからの代官引き上げノヴゴロドモスクワ捕虜全員釈放自分ドミトリイの「弟」であると認めること、いつもモスクワ援助し、またリトアニアとは今後同盟しないこと。ここにおいてミハイル公は完全に敗退し以後は、待遇改善等の要求のみを行うことになる。1375年末には息子イヴァンリトアニアのケイスタスの娘に嫁がせた。このことは、ミハイルの力を回復させる可能性有していたが、1377年アルギルダスが、1381年にケイスタスが死去しミハイル野望実現しなかった。 1380年クリコヴォの戦いへのミハイル参加については、いくつかの説がある。ミハイル戦い参加しなかったとする史料もあれば、甥のイヴァン戦い派遣したとする史料もある。 1382年には、再度トヴェリ強化する機会訪れた。すなわちカシン公ヴァシーリー相続人を遺さずに死去したまた、クリコヴォの戦いの後、またトクタミシュモスクワ攻撃モスクワ疲弊していた。他方ミハイルは、トヴェリハン国攻めないよう多くの財をハン国送り自分の子アレクサンドルと共にハン国詣でをし、ウラジーミル大公位を彼に与えるよう求めたミハイル一年ハン国過ごしたが、彼の要求満たされなかった。トクタミシュ伝統墨守し、ドミトリイには大公国を、ミハイルにはトヴェリ与えることをミハイル伝えた。彼は1383年トヴェリ帰国する。ここでミハイルルーシ盟主になる野望を完全に放棄し以後トヴェリ国内問題関心有するようになった

※この「モスクワとの戦い」の解説は、「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)」の解説の一部です。
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