モスクワからロシアへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:51 UTC 版)
「ロシアの歴史」の記事における「モスクワからロシアへ」の解説
ルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負ったためにカリター(財布)のあだ名をつけられたイヴァン1世以来、モンゴル支配下で次第に実力をつけたモスクワ大公国は、14世紀後半にはジョチ・ウルスの王統中断に始る混乱によってますます勢力を強め、ドミートリー公時代の1380年にはクリコヴォの戦いでジョチ・ウルス西部の実力者ママイを破った。しかし、その直後にはママイを殺害してジョチ・ウルスの再統合を果たしたトクタミシュの攻撃を受けて服属を余儀なくされるなど、タタールのくびきを脱するには至らなかった。 14世紀から15世紀のモスクワ大公国は、トヴェーリをはじめとするルーシ内の諸公国や、西で台頭したリトアニア大公国(のちのポーランド・リトアニア)と戦いながらルーシに勢力を拡大していった。一方、ジョチ・ウルスの側では、トクタミシュがティムールに敗れて没落した後は分裂の度を深めていた。ドミートリー大公の曾孫、イヴァン3世はこの力と情勢を背景として、1480年にハンからの独立を宣言し、貢納を停止した。また、北西ルーシの強国ノヴゴロド公国を併合し、ルーシ北部の統一をほとんど成し遂げた。また、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、モスクワ大公が1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地位を自認する端緒をつくった。ロシア語で皇帝を意味するツァーリの称号もイヴァン3世のとき初めて使われたといわれる。 イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷帝)は1547年にツアーリの称号を正式に用い、ロシアの正教会の間ではモスクワはローマ、コンスタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツアーリはローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれてきた。モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたのも、イヴァン4世の頃の16世紀であったと言われる。 また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国を滅ぼし、始めてジョチ・ウルスの一部を併合、シベリアに向かって東方への拡大を開始した(詳細はロシアのシベリア征服)。イヴァン4世は内政的には大貴族を抑圧してツアーリの直轄地を拡張し、ロシアで最初の議会を創設するなど、中央集権化を目指した改革を進めた。かつて、ルーシ諸公国のひとつに過ぎなかったモスクワ大公国は、多民族を内包する大国家ロシアへと変貌を遂げつつあった。 しかし、1558年に始まったリヴォニア戦争で25年に渡りバルト地方の覇権を争いながら、ポーランド、新興のスウェーデンに敗れ、ヨーロッパから追い出された。さらにその後イヴァン4世は、流血、粛清を繰り返した挙げ句、国家は荒廃し、イヴァン4世死後の混乱・衰微を招来させてしまう原因を残してしまうのである。
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