モスクワとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「モスクワとの対立」の解説
一方、3月に実施されていた人民代議員大会選挙(ロシア語版)では、エストニアに割り当てられた36議席のうち27議席で、人民戦線の支援する候補が当選する勝利を収めた。6月1日にはバルト三国からの強い要望によって、第1期人民代議員大会 (ru) に独ソ不可侵条約調査委員会が設置された。 委員会はモスクワが否定し続けてきた条約秘密議定書の存在を確認し、さらに26人の委員のうち14人が、秘密議定書は三国の主権を蹂躙するものである、としてその無効宣言を求めた。しかし、ゴルバチョフの指示を受けたアレクサンドル・ヤコヴレフ委員長は、8月18日の『プラウダ』上で、秘密議定書とバルト三国の併合を関連付けることを拒否した。これに落胆した三国の約200万人の住民たちは、条約締結記念日の8月23日、タリンからリガを経てヴィリニュスに至る650キロメートルの人間の鎖を作って抗議。この「バルトの道」には、エストニアからヴァリャスとトーメも参加した。 しかしこれに対して8月26日、連邦共産党中央委員会は連邦中央テレビで長文の警告声明を発し、バルト諸民族について「民族主義者に指導されて彼らは奈落の底に向かって猛進している」「もし彼らが目的を達成したならば、3民族にとって結末は破滅的なものとなろう」として、「ソビエト諸民族の単一の家族と連邦共産党の統一を保つ」よう求めた。ゴルバチョフも、9月19日の連邦共産党民族問題中央委員会総会で、当時ファシズムの脅威に晒されていた三国の人民が、自発的にソ連への加盟を選択したのである、と述べてバルト三国の主張を真っ向から否定した。 これを受けて三国の共産党は、8月30日に連邦離脱を否定する声明を発し、表向きはモスクワへの恭順姿勢を示した。しかし、三国の代議員たちはゴルバチョフに対して全面的に不快感を表明し、三国の人民戦線も8月31日、合同で中央委員会を非難する声明「ソビエト連邦の諸民族へ」を発した。合同アピールは中央委員会声明について「スターリン時代、そして1968年のチェコ事件以来、我が国の民主主義にとってこれほど危険な文書が出たことは恐らくなかった」と述べ、著名な反体制活動家アンドレイ・サハロフもまた、9月16日のフランスでのテレビ・インタビューに対し、中央委員会声明は「完全に狂気の沙汰」であり、「無益にも事態をますます悪化させている」と非難した。 もし連邦が自由意志によるものでないならば、もし諸民族が拘束されるならば、もし諸民族の関係が平等でないならば、もし中央が命令を出し、連邦構成国家の屈従が要求されるのならば、そんなものは連邦ではない。超大国、帝国、諸民族の牢獄という別の表現がお似合いである。 — 合同アピール「ソビエト連邦の諸民族へ」より
※この「モスクワとの対立」の解説は、「エストニアの独立回復」の解説の一部です。
「モスクワとの対立」を含む「エストニアの独立回復」の記事については、「エストニアの独立回復」の概要を参照ください。
- モスクワとの対立のページへのリンク