メンバーの認識
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本事件の実質的主導者であった森恒夫の認識は1973年1月の自死までの間に大きく変遷している。逮捕直後に書いた「自己批判書」において一切の責任は自身と永田にあるとし、「新党」と「共産主義化の要求」自体は肯定しながらも結果として多数の犠牲者が出た「方法の誤り」があったとした。その後、「自己批判書」の内容を全面撤回し、D批判に端を発した「共産主義化の要求」が「革命左派の山での経験の絶対化であった」として革命左派に事件の原因を求めるようになった。この「責任転嫁」を坂口弘や塩見孝也に批判され、自死の当日である1973年1月1日付坂東宛書簡では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまった(革命左派内では適切な党運営により誤りが純化されることは無かった)のが原因だとしている。 連合赤軍幹部の永田洋子・坂口弘・坂東國男は、いずれも事件を主導したのは森だとしている。但し、森は権力欲から総括を行ったのではなく、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。永田・坂口・坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決・中野判決を批判している。 一方で連合赤軍幹部の吉野雅邦は「悲劇の発端」に「『下部の離反、逃亡など、革命左派を統制できなくなった』永田洋子が、他組織の森恒夫の指導力に頼っていったこと」があるとし、「暴力的総括要求」は「共産主義化」などではなく、「内部統制のための暴力に他ならなかった」としている。その上で「永田は森と等しい役割を果たした」としながら、「組織内で脆弱な基盤しか持たなかった永田の『指導者としての不安心理』」に重きを置いて「永田個人の責任にすることはできない」としている。 事件の原因については、永田の他のメンバー(特に女性メンバー)に対する嫉妬が原因だとされることもある。連合赤軍被指導部の植垣康博は、当初そのような分析を行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。bや加藤倫教は「そういう一面を持っていた」(b)、「嫉妬のようなものがなかったとは言い切れない」(加藤)としている。女性メンバーdは永田とG・Hの関係について以下のように供述している。 一月中旬頃、永田は、「美人だとか、頭がいいとかいうことはブルジョワ性に傾きやすく、反革命につながる。私は美人も頭がいいのも嫌いなのよ」と言っていたことがあり、HもGも女性らしさや優しさのある人で、スタイルが良くて私たちの中では比較的美人で、しかも頭が良かったわけです。(中略)討論の際、永田はHやGに対し、「美人だと思っているでしょう。モテると思っているでしょう」などと批判していたこともあり、永田が嫌っていることは感じで分かっていました。私は榛名アジトで生活し何人も同志が死んでいくのを見ているうちに、永田に嫌われないようにしようと考えるようになっていました。そのためには太ってスタイルが悪いこと、いつも元気にしていること、男のようになりふりかまわないこと、それが、嫌われないための条件だと考えていたのです。榛名山、迦葉山での生活で永田に嫌われることは、結局生きていけないことにつながっていたのです。 — d、 永田自身はD・G・Hら女性メンバーへの追及について、自身が女性として男性中心の非合法活動を続けていく中で「女性としての生き方」を批判的に考えるようになっていったことが、「女性らしさ」を維持し続けようとしていたDらを批判することに繋がったとしている 。 赤軍派と革命左派が両派の路線の違い(赤軍派は国際的に一斉蜂起し世界各国が同時に革命を起こすという世界同時革命論、革命左派は毛沢東思想に基づき日本単独で革命を成し遂げようとする「反米愛国」を掲げていた)を無視して野合したことに事件の原因を求める意見もある(植垣『兵士たちの連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線は内実をなしていなかったとしている。 脱走した4名の内、eは「仲間が次々に死んで行く状況の中でこういう革命に自分がついて行けるかどうか疑問を感じた」、bは「逃走したのは粛清をやりたくなかったから」と供述している。一方、逃亡しなかった被指導部メンバーの中でaは1972年1月上旬に森の指示で上京した際に山に戻るかを考えた際、「Eが生きているうちに山に戻りたい」と思ったことや、山岳調査や活動が本格的に始まりつつあったためこれ以上仲間が死ぬことはないだろうと考えたこと、死亡した者に対する責任も感じて脱走を思いとどまったことを供述している。cは逃げたいという気持ちや逃げる素振りを見せたら総括要求される、たとえ逃げても捕まって殺されるという恐怖があったという。一方で、たとえ逃げても組織から離れて活動することを考えることができず、「結局この場に残って闘うしかない」と考えるに至ったという。gは「山から降りるのが一番賢明な手段」と考えていたものの「山から降りる」ことは死亡した仲間に対して「申し訳ないというか卑怯なことだと思っていた」という。 加藤倫教は「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも「革命」という目標を優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている。 bは「主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感を感じつつも受け入れてしまった(原文ママ)」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている。 本事件に関しては、1987年に「連合赤軍事件の全体像を残す会」が元革命左派メンバーや元赤軍派メンバーが中心となって結成され、事件を後世に伝えること、犠牲者の追悼、そして事件の「総括」をすることを目的として、当事者の証言を集める活動やシンポジウム等が定期的に行なわれている。懲役を終えて出所した事件当事者である植垣やa・bらも活動に参加して各所で事件当時のことを証言している。その一方で未だに事件当時のことを語りたがらないメンバーも多くいるという。
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