メンバーの認識とは? わかりやすく解説

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メンバーの認識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 18:11 UTC 版)

山岳ベース事件」の記事における「メンバーの認識」の解説

本事件実質的主導者であった森恒夫認識1973年1月自死までの間に大きく変遷している。逮捕直後書いた自己批判書」において一切責任自身永田にあるとし、「新党」と「共産主義化要求自体肯定しながらも結果として多数犠牲者出た方法誤り」があったとした。その後、「自己批判書」の内容全面撤回し、D批判端を発した共産主義化要求」が「革命左派の山での経験絶対であった」として革命左派事件の原因求めようになった。この「責任転嫁」を坂口弘塩見孝也批判され自死当日である1973年1月1日坂東宛書簡では、革命左派誤り自身純化させてしまった(革命左派内では適切な運営により誤り純化されることは無かった)のが原因だとしている。 連合赤軍幹部永田洋子坂口弘坂東國男は、いずれも事件主導したのはだとしている。但し、権力欲から総括行ったではなく自身作った総括理論のめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。永田坂口坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決中野判決批判している。 一方で連合赤軍幹部吉野雅邦は「悲劇発端」に「『下部離反逃亡など、革命左派統制できなくなった永田洋子が、他組織森恒夫指導力頼っていったこと」があるとし、「暴力的総括要求」は「共産主義化」などではなく、「内部統制のための暴力に他ならなかった」としている。その上で永田等し役割果たした」としながら、「組織内脆弱な基盤しか持たなかった永田の『指導者としての不安心理』」に重きを置いて永田個人責任にすることはできない」としている。 事件の原因については、永田他のメンバー(特に女性メンバー)に対す嫉妬原因とされることもある。連合赤軍指導部植垣康博は、当初そのような分析行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。bや加藤倫教は「そういう一面持っていた」(b)、「嫉妬のようなものがなかったとは言い切れない」(加藤)としている。女性メンバーdは永田G・Hの関係について以下のように供述している。 一月中旬頃、永田は、「美人だとか、頭がいいとかいうことはブルジョワ性に傾きやすく、反革命につながる。私は美人頭がいいのも嫌いなのよ」と言っていたことがあり、HもGも女性らしさ優しさのある人で、スタイル良くて私たちの中では比較美人で、しかも頭が良かったわけです。(中略討論の際、永田はHやGに対し、「美人だと思っているでしょうモテる思っているでしょう」などと批判していたこともあり、永田嫌っていることは感じ分かっていました。私は榛名アジト生活し何人も同志死んでいくのを見ているうちに、永田嫌われないようにしようと考えるようになっていました。そのためには太ってスタイル悪いこといつも元気にしていること、男のようになりふりかまわないこと、それが、嫌われないための条件だと考えていたのです。榛名山迦葉山での生活で永田嫌われることは、結局生きていけないことにつながっていたのです。 — d、 永田自身D・G・Hら女性メンバーへの追及について、自身女性として男性中心非合法活動続けていく中で「女性として生き方」を批判的に考えるようになっていったことが、「女性らしさ」を維持し続けようとしていたDらを批判することに繋がったとしている 。 赤軍派革命左派が両派の路線違い赤軍派国際的に一斉蜂起し世界各国同時に革命起こすという世界同時革命論、革命左派毛沢東思想に基づき日本単独革命成し遂げようとする「反米愛国」を掲げていた)を無視して野合したことに事件の原因求め意見もある(植垣『兵士たち連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線内実をなしていなかったとしている。 脱走した4名の内、eは「仲間次々死んで行く状況の中でこういう革命自分がついて行けるかどうか疑問感じた」、bは「逃走したのは粛清をやりたくなかったから」と供述している。一方逃亡しなかった被指導部メンバーの中でaは1972年1月上旬指示上京した際に山に戻るかを考えた際、「Eが生きているうちに山に戻りたい」と思ったことや、山岳調査活動本格的に始まりつつあったためこれ以上仲間が死ぬことはないだろう考えたこと、死亡した者に対す責任感じて脱走思いとどまったことを供述している。cは逃げたいという気持ち逃げ素振り見せた総括要求される、たとえ逃げて捕まって殺されるという恐怖があったという。一方で、たとえ逃げて組織から離れて活動することを考えることができず、「結局この場に残って闘うしかない」と考えるに至ったという。gは「山から降りるのが一番賢明な手段」と考えていたものの「山から降りる」ことは死亡した仲間に対して申し訳ないというか卑怯なことだと思っていた」という。 加藤倫教は「あのとき誰かが声をあげさえすればあれほど多くメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも革命」という目標優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている。 bは「主観的な行動とうすう感じつつも武装闘争殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感感じつつも受け入れてしまった(原文ママ)」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている。 本事件に関しては、1987年に「連合赤軍事件全体像を残す会」が元革命左派メンバーや元赤軍派メンバー中心となって結成され事件後世伝えること、犠牲者追悼、そして事件の「総括」をすることを目的として、当事者証言集め活動シンポジウム等が定期的に行なわれている。懲役終えて出所した事件当事者である植垣やa・bらも活動参加して各所事件当時のことを証言している。その一方で未だに事件当時のことを語りたがらないメンバー多くいるという。

※この「メンバーの認識」の解説は、「山岳ベース事件」の解説の一部です。
「メンバーの認識」を含む「山岳ベース事件」の記事については、「山岳ベース事件」の概要を参照ください。

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