ミュンスター軍によるブレーメン=フェルデン襲撃
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「ブレーメン=フェルデン戦役」の記事における「ミュンスター軍によるブレーメン=フェルデン襲撃」の解説
年表1675年秋季戦役 9月15日 – ミュンスター軍がヴィルデスハウゼン(英語版)警察区に進攻し、ブレーメンを経由してフェルデンへと前進。 9月28日 – ブランデンブルク軍がカールスブルク(英語版)の前面に上陸。 10月2日 – スウェーデン軍の救援により、カールスブルク前面のブランデンブルク軍が敗北。 10月3日 – ミュンスター軍、オッタースベルクを占領。 10月4日 – スウェーデン軍、ラント・ヴルステン(ドイツ語版)に対するデンマーク軍の攻撃を撃退。 10月12日 – 連合軍、ブクステフーデを占領。 10月28日 – 連合軍、ブレーマーフェルデを占領。 10月末 – 連合軍の総司令官が交代。 11月6日-7日 – 連合軍、シュターデを数度にわたって攻撃するも失敗。 1月初頭 – スウェーデン軍、フライブルクの戦いに勝利。 1月22日 – 連合軍、カールスブルクを占領。 1676春季戦役 5月上旬 – 連合軍、シュターデの攻囲を開始。 8月13日 – シュターデのスウェーデン軍が降伏。 この戦役は1675年9月15日、スウェーデン領の南西でテアートルム・エウロペーウム(英語版)の記述に拠れば約10,000名(他の文献では4,000名)のミュンスター軍がハーゼリュンネ(英語版)を経由し、ヴィルデスハウゼン(英語版)警察区に進攻した時に始まった。ヴェーザー川へ向かう、さらなる進撃は阻まれなかった。ブレーメンでは9月25日、ミュンスター軍が砲兵隊とともにヴェーザー川を渡る。 ヴェストファーレンの所領から来た、歩兵1,600名と騎兵700名を擁するブランデンブルク軍もシュペーン(英語版)男爵少将に率いられ、9月末にブレーメンに到着する。デンマーク軍は、グスタフ・アドルフ・フォン・バウディスィーン(ドイツ語版)伯爵中将指揮下の2,500名をもって参戦した。 司教クリストフ・フォン・ガレン率いるミュンスター軍は、中立のブレーメンからヴェーザー川沿いのラングヴェーデル要塞に進み、9月27日から28日にかけて占領する。これにより、かつてのフェルデン司教領(ドイツ語版)への道が開かれた。フェルデン自体はすでに9月27日、連合軍の占領下に入っている。ミュンスター軍は町を急襲して侵入し、市門の一つを制圧したのである。 フェルデンに続いて、ローテンブルクも短時間の抗戦を経て降伏し、攻略された。そこからすぐに軍団はオッタースベルクへの移動を開始し、1675年10月3日には兵力に勝るミュンスター軍が同地を占領する。スウェーデンの守備隊140名は捕虜となった。それから連合軍は、ブクステフーデを目標に北東へ進軍を続け、10月12日に到着する。 この町の防備は固く、食糧や弾薬の備蓄も豊富で、テアートルム・エウロペーウムの記述に拠ると400名の守備隊がいた。攻囲戦は不可避と思われた。同日の内に連合軍は、町の前面にある重要な高地を占領し、そこで全ての大砲(臼砲14門と榴弾砲37門)を配置に就ける。10月13日の朝には砲撃が始まり、60軒以上の家屋で火災が発生した。10月14日、榴弾砲と臼砲から合わせて100発の爆弾と60発の榴弾が町へ撃ち込まれ、これまた著しい損害を与えたが、この時には住民から死亡者は出なかった。10月15日、突入に必要な塹壕を町の前面に掘り、大規模な攻撃を敢行するべく砲撃が停止される。 砲撃はすでに重大な被害を及ぼしていたため、ブクステフーデの司令官、ハメルトンはスウェーデン国王に帝国アハト刑が宣告されたことを知った住民やドイツ人傭兵に迫られ、町の降伏を余儀なくされた。守備隊は所有物と携行武器を伴い、シュターデに撤退することを許可される。10月16日、連合軍は町に入城した。この時、スウェーデン軍が残した大砲24門と砲弾を入手している。 ブクステフーデの陥落後、連合軍の諸連隊の一部はブレーマーフェルデに進撃した。10月25日、ブレーマーフェルデ要塞(ドイツ語版)の攻囲が始まる。3日間にわたる大規模な砲撃の後、守備隊に属するドイツ人傭兵は軍務を拒否した。連合軍は、一人のトランペット手を軍使として町へ派遣する。軍使は「要塞を占領した後、ドイツ人の戦闘員は全て処刑する」と言って守備隊を脅した。彼らがアハト刑に処された者に仕え、その武器を神聖ローマ帝国に対して使用しているというのが、その理由であった。スウェーデン人の指揮官にはこのような状況の下、町を引き渡す他に選択の余地はなかった。スウェーデン人の士官と兵には全ての所有物と武器を伴う撤収が認められた一方、ドイツ人守備兵のほとんどは連合軍に転仕した。同盟国間の事前の協議に基づき、町はブスクテフーデに500名を入城させていたリューネブルク軍に割り当てられる。この時点で、スウェーデン軍の手中に残るのはシュターデとカールスブルクの要塞のみとなった。
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