ミュンスター司教として
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「クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン」の記事における「ミュンスター司教として」の解説
1923年にはランベルティ教会(ドイツ語版)聖堂区司祭としてミュンスターに帰り、1933年10月にミュンスター司教区(ドイツ語版、英語版)の司教となった。この際に自らの信条として「ラテン語: Nec laudibus nec timore(称賛を求めず、恐怖にたじろがず)」を選んでいる。ガーレンは剛直な性格であり、「ミュンスターのライオン」とあだ名された。1934年には「ミュンスター司教区報」に、国家社会主義ドイツ労働者党のイデオローグであったアルフレート・ローゼンベルクの『二十世紀の神話』を批判する文章を掲載している。1937年にはローマに招かれ、ピウス11世によるナチズムを批判した回勅「ミット・ブレネンダー・ゾルゲ」の策定に関与している。1937年には禁止命令が出ていたにもかかわらず、ミュンスターで聖体行列を執り行い、「主たるキリストの休日」では4万人の信徒を前にナチスの文化政策を批判する説教を行っている。翌日、ナチ党側は宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスを招いてこれに反対する集会が開いたが、ミュンスター市民は一人も姿をあらわさなかったという。
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