ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手とは? わかりやすく解説

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ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:46 UTC 版)

「ザ・ベストテン」記事における「ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手」の解説

石原裕次郎北の旅人」(1987年) - 本人の没後レコード発売ランクインしている。1987年8月27日にこの曲で初のベストテン入りとなり、スタジオで同年2月レコーディングに関して紹介した時には、ミラーゲートのファンファーレとともに本人写真パネル登場したまた、事務所から送られ本人署名初登場サイン帳に加えられた。テレビ初披露となったこの日の歌唱は、昭和55年裕次郎の姿を映した映像テイチクレコード編集制作した映像流された。 内海和子蒼いメモリーズ」(1986年) - TBSフジテレビ石田班)の関係が悪化しおニャン子クラブ出演拒否をしていたため、ソロでの出演無かった。『歌のトップテン』には出演EPOう、ふ、ふ、ふ、」(1983年) - 資生堂の春のCMソング同時期、資生堂スポンサーの『夜のヒットスタジオ』には出演しこの曲を歌唱しているが、花王提供している当番組と日本テレビ系ザ・トップテン』には、出演していない。 大沢誉志幸そして僕は途方に暮れる」(1984年) - 非ランキング番組には出演尾崎豊"CORE"」(1987年)、「太陽の破片」(1988年)- 1988年7月7日出演しない理由VTR放送したオフコース 「さよなら」1980年)、「Yes-No」(1980年)、「YES-YES-YES」(1982年。この曲がランクインした際、小田和正のみがレコーディングスタジオから中継コメント寄せた。)、「君が、嘘を、ついた」(1984年小林麻美雨音はショパンの調べ」(1984年) - 当時の所属事務所田辺エージェンシー)が、女優としてテレビ出演はするが歌手としてのテレビ出演をしない方針取ったことや、「気休め麻薬」という歌詞放送問題があり、当時NHK放送禁止曲(日本民間放送連盟要注意歌謡曲指定制度とも異なNHK独自の基準)として扱っていたことも影響した米米CLUBKOME KOME WAR」(1988年COMPLEXBE MY BABY」(1989年) - 吉川晃司ソロ頻繁に出演していた。 チューリップ虹とスニーカーの頃」(1979年中島みゆきわかれうた」(1978年)、「ひとり上手」(1980年)、「悪女」(1981年)、「誘惑」(1982年)、「横恋慕」(1982年) - 出演拒否理由は、アーティストとしての活動方針と共に「かつて新人時代TBS別の音楽番組出演した際に良くない扱い受けた」ことが大きな原因とされている。ただし、1988年豪華版中島自身作詞の「MUGO・ん…色っぽい」で年間ベスト10入りした工藤静香対し祝福電話入れており、これが自身唯一の番組出演となった仲村トオルIT'S ALL RIGHT」(1988年) - 一条寺美奈とのデュエット新宿純愛物語」で『歌のトップテン』には出演している。 ビーバップ少年少女合唱団清水宏次朗仲村トオル宮崎ますみ) 「ビーバップパラダイス」(1986年) - 当初このユニットでの歌番組出演はしない方針説明されていたが、『ミュージックステーション』・『歌のトップテン』には出演している。なお、清水ソロ歌手としては「Summer of 1985」でスポットライトへの出演経験がある。 氷室京介ANGEL」「DEAR ALGERNON」(1988年)、「SUMMER GAME」「MISTY〜微妙に〜」(1989年) - 1988年8月4日の初ランクイン時に番組出演できない内容の手紙を送る。 藤井郁弥(現・藤井フミヤ) 「Mother's Touch」(1988年) - チェッカーズとしてはもちろん何度も出演しているが、グループ在籍中ソロでのテレビ出演はしない方針だったため、他の歌番組でも一切披露されなかった。 THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」1989年BOØWYB・BLUE」(1986年) 「MARIONETTE」(1987年松任谷由実 & 小田和正 & 財津和夫今だから」(1985年) - テレビ出演意向無かったため。 美空ひばり川の流れのように」(1989年) - 本人の没後ランクインしている。1989年8月31日、「今週のスポットライトコーナーで、生前のひばり自身歌唱披露していた、1989年昭和64年1月4日TBS放映特別番組春一番!熱唱美空ひばり ~いま誓い新たに燃え不死鳥25!!~」からの映像流していた。また、初登場サイン上述石原裕次郎同じく生前宣材写真署名加えたものが提供された。それから2週間後の9月14日に第10位へ唯一のランク、この日にも上記特番動画再放送する。なお、没後ベストテン入りした歌手上述石原裕次郎以来2年振り2人目の出来事だった。 南こうせつ夢一夜」(1978年宮沢りえDREAM RUSH」(1989年) - 最終回に、最後の初ベストテン入りとなった欠席。『歌のトップテン』にも1度出演無かった。しかし、中山美穂出演の際にゲスト扱い1度だけ出演した経験がある。 村下孝蔵 「初恋」1983年) - 出演しなかったのは本人ではなくレコード会社意向だったとされているが、実はランクイン当時重い肝臓病を患っていた事を後年公表1983年豪華版年間ベスト10入りした際に、喜び音声メッセージ流された。一方でディレクター山田は、出演拒否理由を「ベストテンのようなメジャー番組出演することでファン離れる」ことを本人危惧したためとしている。 矢沢永吉時間よ止まれ」(1978年)、「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」(1980年)、「YES MY LOVE」(1982年) -「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」は曲名商品名直接表記されていたため、ランキング発表時にはCMソングと言い換えられ、テロップやランキングボードでは曲名にあたる部分括弧付き、「(CMソング矢沢永吉」と表示された。 山下達郎GET BACK IN LOVE」(1988年) - 山下本人より「(意向により)出演はしないが、ランクインされたことに感謝したい」との手紙が番組宛に送られた。山下ランクインした週には番組宛に必ず手紙送りその都度番組内紹介された。

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