ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手
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「ザ・ベストテン」の記事における「ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手」の解説
石原裕次郎 「北の旅人」(1987年) - 本人の没後にレコード発売・ランクインしている。1987年8月27日にこの曲で初のベストテン入りとなり、スタジオで同年2月のレコーディングに関して紹介した時には、ミラーゲートのファンファーレとともに本人の写真パネルが登場した。また、事務所から送られた本人の署名が初登場のサイン帳に加えられた。テレビ初披露となったこの日の歌唱は、昭和55年の裕次郎の姿を映した映像をテイチクレコードが編集・制作した映像が流された。 内海和子 「蒼いメモリーズ」(1986年) - TBSとフジテレビ(石田班)の関係が悪化し、おニャン子クラブが出演拒否をしていたため、ソロでの出演は無かった。『歌のトップテン』には出演。 EPO 「う、ふ、ふ、ふ、」(1983年) - 資生堂の春のCMソング。同時期、資生堂がスポンサーの『夜のヒットスタジオ』には出演しこの曲を歌唱しているが、花王が提供している当番組と日本テレビ系『ザ・トップテン』には、出演していない。 大沢誉志幸 「そして僕は途方に暮れる」(1984年) - 非ランキング番組には出演。 尾崎豊 「核"CORE"」(1987年)、「太陽の破片」(1988年)- 1988年7月7日に出演しない理由のVTRを放送した。 オフコース 「さよなら」(1980年)、「Yes-No」(1980年)、「YES-YES-YES」(1982年。この曲がランクインした際、小田和正のみがレコーディングスタジオから中継でコメントを寄せた。)、「君が、嘘を、ついた」(1984年) 小林麻美 「雨音はショパンの調べ」(1984年) - 当時の所属事務所(田辺エージェンシー)が、女優としてのテレビ出演はするが歌手としてのテレビ出演をしない方針を取ったことや、「気休めは麻薬」という歌詞に放送上問題があり、当時のNHKが放送禁止曲(日本民間放送連盟の要注意歌謡曲指定制度とも異なるNHK独自の基準)として扱っていたことも影響した。 米米CLUB 「KOME KOME WAR」(1988年) COMPLEX 「BE MY BABY」(1989年) - 吉川晃司はソロで頻繁に出演していた。 チューリップ 「虹とスニーカーの頃」(1979年) 中島みゆき 「わかれうた」(1978年)、「ひとり上手」(1980年)、「悪女」(1981年)、「誘惑」(1982年)、「横恋慕」(1982年) - 出演拒否の理由は、アーティストとしての活動方針と共に「かつて新人時代にTBSの別の音楽番組に出演した際に良くない扱いを受けた」ことが大きな原因とされている。ただし、1988年の豪華版で中島自身作詞の「MUGO・ん…色っぽい」で年間ベスト10入りした工藤静香に対し祝福の電話を入れており、これが自身唯一の同番組出演となった。 仲村トオル 「IT'S ALL RIGHT」(1988年) - 一条寺美奈とのデュエット「新宿純愛物語」で『歌のトップテン』には出演している。 ビーバップ少年少女合唱団(清水宏次朗、仲村トオル、宮崎ますみ) 「ビーバップパラダイス」(1986年) - 当初このユニットでの歌番組出演はしない方針と説明されていたが、『ミュージックステーション』・『歌のトップテン』には出演している。なお、清水はソロ歌手としては「Summer of 1985」でスポットライトへの出演経験がある。 氷室京介 「ANGEL」「DEAR ALGERNON」(1988年)、「SUMMER GAME」「MISTY〜微妙に〜」(1989年) - 1988年8月4日の初ランクイン時に番組に出演できない内容の手紙を送る。 藤井郁弥(現・藤井フミヤ) 「Mother's Touch」(1988年) - チェッカーズとしてはもちろん何度も出演しているが、グループ在籍中はソロでのテレビ出演はしない方針だったため、他の歌番組でも一切披露されなかった。 THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」(1989年) BOØWY 「B・BLUE」(1986年) 「MARIONETTE」(1987年) 松任谷由実 & 小田和正 & 財津和夫 「今だから」(1985年) - テレビ出演の意向が無かったため。 美空ひばり 「川の流れのように」(1989年) - 本人の没後にランクインしている。1989年8月31日、「今週のスポットライト」コーナーで、生前のひばり自身が歌唱披露していた、1989年(昭和64年)1月4日にTBS放映の特別番組「春一番!熱唱美空ひばり ~いま誓い新たに燃える不死鳥全25曲!!~」からの映像を流していた。また、初登場のサインは上述の石原裕次郎と同じく生前の宣材写真に署名を加えたものが提供された。それから2週間後の9月14日に第10位へ唯一のランク、この日にも上記特番の動画を再放送する。なお、没後にベストテン入りした歌手は上述の石原裕次郎以来、2年振り2人目の出来事だった。 南こうせつ 「夢一夜」(1978年) 宮沢りえ 「DREAM RUSH」(1989年) - 最終回に、最後の初ベストテン入りとなったが欠席。『歌のトップテン』にも1度も出演は無かった。しかし、中山美穂出演の際にゲスト扱いで1度だけ出演した経験がある。 村下孝蔵 「初恋」(1983年) - 出演しなかったのは本人ではなくレコード会社の意向だったとされているが、実はランクイン当時重い肝臓病を患っていた事を後年公表。1983年の豪華版で年間ベスト10入りした際に、喜びの音声メッセージが流された。一方でディレクターの山田は、出演拒否の理由を「ベストテンのようなメジャー番組に出演することでファンが離れる」ことを本人が危惧したためとしている。 矢沢永吉 「時間よ止まれ」(1978年)、「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」(1980年)、「YES MY LOVE」(1982年) -「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」は曲名に商品名が直接表記されていたため、ランキング発表時には「CMソング」と言い換えられ、テロップやランキングボードでは曲名にあたる部分に括弧が付き、「(CMソング)矢沢永吉」と表示された。 山下達郎 「GET BACK IN LOVE」(1988年) - 山下本人より「(意向により)出演はしないが、ランクインされたことに感謝したい」との手紙が番組宛に送られた。山下はランクインした週には番組宛に必ず手紙を送り、その都度番組内で紹介された。
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