フランシスコ会「清貧論争」への介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 14:18 UTC 版)
「ヨハネス22世 (ローマ教皇)」の記事における「フランシスコ会「清貧論争」への介入」の解説
「フランシスコ会」も参照 前任のクレメンス5世は1309年、教皇庁内にフランシスコ会の会則問題について調査委員会を設け、会則の厳格な遵守を主張するスピリトゥアル派(聖霊派)と緩和を主張する穏健な主流派の双方の代表を招き「清貧」について論じさせた。このように歴代の教皇は、フランシスコ会の内部対立の仲裁を求められ、それに対し応じてきたのであった。 ヨハネス22世は1317年、ナルボンヌ(南仏・オード県)とベジエ(同エロー県)の聖霊派修道士に対し、「短い僧衣」を捨て、主流派のフランシスコ会総長に服従すべしと命じ、修道会対立の解消をはかった。「短い僧衣」とは、聖霊派の「貧しき使用」実践の象徴となっていたもので、これを捨てることは彼らに自身のアイデンティティを放棄するよう命じたものにほかならなかった。そして、ルボンヌとベジエの聖霊派修道士61名を名指しで召喚し、10日以内にアヴィニョンに出頭して教皇の前で先の命令に対して返答すること、査問を拒否する者は破門に処することを申し伝えた。両地の修道士たちは5月22日深夜、アヴィニョンの教皇宮殿の門前にたどりつき、翌日より査問が始まった。査問の光景は、聖霊派の指導者の一人アンジェロ・クラレーノ(イタリア語版)の筆を通じて知ることができる。教皇は多数の顧問団に囲まれ、立派な椅子に腰掛けており、一方の側には豪華な盛装の主流派が、一方の側にはつぎはぎだらけの「短い僧衣」の聖霊派が控えた。クラレーノによれば、査問とは名ばかりで、実際には逮捕のための口実にすぎなかった。「教皇聖下、正義を」という叫びのなか、聖霊派の会士はひとりひとり連れ去られ、アヴィニョン教皇庁内の牢獄に収監された。 1317年10月、ヨハネス22世は教皇勅書『クォルムダム・エクスィギト(Quorumdam exigit )』を発し、フランシスコ会の修道士は、修道会総長が粗末な僧衣をやめさせ、穀物倉・ワイン倉の設置を認可する権限を持つことを認めよと命じた。教皇は、教勅を「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」の言葉で結んだ。結局、ヨハネス22世が求めたことは、全会員に対して修道会総長の権威に、そして最終的には教皇の権威に服従させることであった。 この教勅を受けて、フランシスコ会16代総長のチェゼーナのミケーレ(英語版)は、60余名の収監中の聖霊派修道士に教皇への服従を求めた。多数の修道士はこれにしたがったが、なおも20名は抵抗した。そこで教皇ヨハネスは、抵抗する聖霊派についての判断を13人の神学者からなる委員会に諮問した。神学者たちの答えは、あくまでも服従を拒み続けるのであれば、異端として断罪されるべきであるという見解で一致していた。ヨハネスはなおも教勅を受け入れない修道士をフランシスコ会の異端審問官ミシェル・ル・モワーヌに委ねた。最終的には5名を除いて異端的立場を捨て、教皇と総長に恭順を誓った。最後まで不服従を貫いた5人は「異端」とされ、直前に悔悛した1名のみ終身刑に処せられ、他の4名は世俗の手に渡され、1318年5月7日、マルセイユにおいて火刑に処せられた。 ローマ教会が公認した会則にあくまでも忠実であろうとした人びとが生きながら火あぶりに処せられた光景には多くの人びとが衝撃を受けた。こののち、1328年までの10年間、異端審問による異端狩りがおこなわれた。マルセイユやモンペリエ、トゥルーズなどから多くの男女が、地方の司牧権力や世俗権力からの協力を得て、逮捕され、異端審問官たちによって尋問された。異端狩りの対象となったのは、聖霊派の信念を曲げなかった人びとと「ペガン」と呼ばれた多くの在俗信徒(第三会)の支持者たちであった。1322年、フランシスコ会総会はキリストと12使徒が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明したが、この見解は聖霊派に近い考えであったため、ヨハネス22世はこれを異端と非難、フランシスコ会は教皇に従う者と従わない者とで再び分裂した。 一方、こうした厳しい弾圧に対し、聖霊派はフランシスコ会主流派のみならずヨハネス22世を首長とするカトリック教会に対しても公然と反抗、修道士たちは教皇制度の批判を展開した。教会はイエス・キリスト自身も富を尊重していたと主張し、聖霊派に対する異端審問を強化して監禁や火刑に処し、さらに彼らの修道院を破壊するなど弾圧を加えた。ヨハネス22世はさらに、次々と教勅を発布して、それまでフランシスコ会に与えていた特権を撤回し、「キリストの清貧」をあくまでも主張することは異端的であるとして、清貧の立場からのあらゆる批判を封じようとした。具体的には、1322年3月に教勅『クィア・ノンヌンクァム (Quia nonnunquam )』を発布し、かつて教皇が発布した教勅でも有害な結果をもたらすものならば撤回できるとし、ニコラウス3世がかつて教勅で認めたフランシスコ会の清貧教義を撤回し、同年12月には教勅『アド・コンディトレム (Ad conditorem )』を発布して、現実にフランシスコ会は財を保持している以上、清貧は虚偽であるとした。さらに、1323年11月の教勅『クム・インテル・ノンヌッロス (Qum inter nonnullos )』では何らかの財を使用しておきながら無所有であると主張することは罪悪であるとした。 しかし、こうした一連のフランシスコ会成立の根幹部分にふれる強硬な介入に対しては、フランシスコ会の主流派も動揺し、総長チェゼーナのミケーレやベルガモのボナグラフィア(英語版)、オッカムのウィリアムらは教皇を「異端」と非難し、1328年、ヨハネス22世と対立していた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとへと逃亡し、ヨハネス22世の廃位を要求した。
※この「フランシスコ会「清貧論争」への介入」の解説は、「ヨハネス22世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「フランシスコ会「清貧論争」への介入」を含む「ヨハネス22世 (ローマ教皇)」の記事については、「ヨハネス22世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。
- フランシスコ会「清貧論争」への介入のページへのリンク