ファビアン協会とは? わかりやすく解説

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フェビアン協会

(ファビアン協会 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 03:55 UTC 版)

フェビアン協会
Fabian Society
設立 1884年1月4日 (141年前) (1884-01-04)
種類 政治団体シンクタンク
本部 イギリス ロンドン
加盟 労働党
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フェビアン協会(フェビアンきょうかい、Fabian Society)は、19世紀後半に創設された、最もよく知られているイギリス中産階級の社会主義知識人による運動。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを設立する際の母体となった。なお、労働党の基盤の団体として、現在も存在している。

名称の由来とシンボル

古代ローマの軍人である、クィントゥス・ファビウス・マクシムスにちなんで、フェビアン協会と名づけられた。これは、フェビアン協会を設立した知識人の一人、フランク・ポドモアの提案によるものである。クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、カルタゴハンニバルを持久戦で破った名将である。

フェビアン協会のシンボルである「猛り狂う亀」(raging tortoise)は、設立の1884年1月4日に名前の「Fabian」(ファビウス・クンクタトルに由来する遅延戦術)を提案したフランク・ポドモアの影響で、漸進的な社会改革を象徴するものとして採用された。この亀のデザインは、ゆっくり進むが「When I strike, I strike hard」(打つ時は強く打つ)というモットーを伴い、「猛り狂う」イメージを強調する形で初期から使用され、1889年の『フェビアン社会主義論集』(Fabian Essays in Socialism)の出版頃に広く知られるようになった。 初期のシンボルは狼の姿だったが、負のイメージから、亀に置き換わったとされる記録もある。

クンクタトル(Cunctator)は、ラテン語で「遅延者」「ためらう者」「先延ばしをする者」を意味する言葉で、古代ローマの将軍クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ヴェッルコスス(Quintus Fabius Maximus Verrucosus)の異名である。彼は紀元前3世紀の第二次ポエニ戦争で、強敵ハンニバルに対して直接戦闘を避け、補給線を断つなどの「遅延戦術」(Fabian strategy)を用いてローマを勝利に導いたため、このあだ名がついた。この戦術は、急ぎすぎずじっくりと機会を待つ「ファビアン主義」の語源にもなっている。「Cunctator」の「tator(タトル)」の綴りやイメージ(遅延)が英語の「turtle(タートル)」(亀)の「遅い」イメージと重なり、フェビアン協会(Fabian Society)のシンボルとして「猛り狂う亀」(raging tortoise)が採用された。これはファビウスの遅延戦術を象徴し、モットー「When I strike, I strike hard」(打つ時は強く打つ)と組み合わせて使われている。亀の遅さは、まさにクンクタトルの本質を表している。

[1] - フェビアン協会の本来のシンボル「羊の皮を被った狼」。F.S はFabian Societyの頭文字。これは「偽預言者たちに気をつけなさい。羊の皮をかぶってやって来るが、内心は猛り狂う狼である。」(マタイの福音書7章15節)に由来。後に「猛り狂う亀」に変更された。

概要

「かくしてついに、子供の心はこうした暗示そのものとなり、こうした暗示の総計がまた子供の心となる。いや、何も子供の心とは限らない。それが成人の心でもある。生涯を通じてそうなのだ。判断し、欲望し、決定する心。それがこういう暗示で出来上がってしまうのだ。 ところで、こういう暗示は我々が与える暗示なのだ。つまり国家が授ける暗示なのだ」 — オルダス・ハクスリー「素晴らしい新世界

誕生

1884年1月4日、フェビアン協会はロンドンで設立された。1883年にトーマス・デイヴィッドソンがロンドンに新生活友愛会をつくり、詩人のエドワード・カーペンター、ジョン・デイヴィッドソン、性科学者のハヴロック・エリス、エドワード・R・ピースら約9人がメンバーとなっており、この団体の支会として設立された。新生活友愛会は、清潔で単純化された生活の模範を示すことで、社会を変革しようとしていた。しかし、個人の精神生活に籠ろうとするグループと、社会改革に携わろうとするグループがあり、後者のメンバーがより政治的な団体を別に作ろうとした結果、フェビアン協会の創設が決定された。その中心になったのが、フランク・ポドモアである。その後も、全メンバーは自由に両方に関わることができた。1890年代の初めに新生活友愛会は解散されたが、フェビアン協会はヴィクトリア朝末期からエドワード朝の時代のイギリスで、卓越した知識人の協会になった。1896年には第二インターナショナルのロンドン会議にも参加している。

社会意識に目覚めた中産階級知識人の知的サロンであり、労働者階級の団体ではなく、体系的な思想や理論ももなく、ただ現状の人間生活を良くするには社会改革が必要だという漠然とした意識・共通感情を持っていた。他の社会主義団体からは、「客間(サロン)の 社会主義者」と嘲笑された[1]

設立後すぐに、ジョージ・バーナード・ショーシドニー・ウェッブ、ビアトリス・ポッター、アニー・ベサントグレーアム・ウォーラスヒューバート・ブランド英語版イーディス・ネズビットH・G・ウェルズシドニー・オリヴィエ英語版エミリン・パンクハーストら社会主義に魅力を感じた多くの知識人を引きつけた。その後、バートランド・ラッセルもメンバーになった。ショーとウェッブが、フェビアン協会に一定の方向性と活動意識をもたらした[1]。このグループは革命的ではなく、むしろ緩やかな変革を志向(社会改良主義)していた。このように、漸進的な社会変革によって教条主義マルクス主義に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。

1887年に協会の理念規定書である「基礎」が改訂され、土地と産業資本の共有化を目指すなど社会主義団体としての綱領を明確にした。そして、フェビアン社会主義の理論構築をすすめ、1889年に『フェビアン社会主義論集』が出版された。フェビアン社会主義の特色には、まずひとつにレント(地代)論がある。これはリカード比較優位理論の骨子を援用し、土地・資本・技能における比較優位から得られる超過利潤は社会的に共有されるべき、という主張だった。他の特色として、社会主義は階級闘争ではなく、社会諸制度の人為的変革によって人類が進歩する過程で出現するという「歴史の制度的な解釈」という理論がある[2]。『フェビアン社会主義論集』は刊行後の3年間で2万部以上を売り上げ、フェビアン協会は社会的に認知され会員数も急増していった。1890年代にはフェビアン社会主義に共鳴する組織が国内外に相次いで組織された。

なお、社会主義と心霊主義はともに理想社会(世俗的千年王国)をこの世に到来させようとする点で一致しており、両者は密接な関係にあった[3]。そのため、ポドモアやベサントなどの初期のメンバーには、心霊主義の傾向が強い者が少なからずいた。

1887年のフェビアン協会「基礎」の改訂内容

フェビアン協会の理念規定書「基礎」(Basis)は、1884年の設立当初から存在していたが、1887年1月に新しいトラクト(小冊子)が採択されたことを受け、執行部が改訂委員会を任命した。この委員会は執行部に加え、ウォルター・クレイン、S.D.ヘッドラム牧師、グレーアム・ウォラスら8人のメンバーで構成され、広範な議論の末に報告書を作成。1887年6月3日の総会で全会一致で採択された。

改訂の背景には、アナキストと集産主義者の間の妥協解決後の落ち着きがあり、執行部の通達では会員の無関心を問題視していた。議事録が不完全だったため、10月まで議論が続いたが、最終的に無修正で承認された。

主な変更点

  • 経済的・社会主義的明確化: 改訂前は曖昧だった綱領を、純粋に経済的なものに絞り込み、社会主義団体としての基盤を強化。土地と産業資本の共有化(emancipation of Land and Industrial Capital from individual and class ownership)を明記し、これらを共同体(community)のために公有化することを目指す内容にした。補償(compensation)に関する表現が不十分でしばしば無視されたが、代替案の合意が難しかったため残された。
  • 追加提案の否決: スチュアート・グレニーによる結婚・家族に関する条項追加提案があったが、アニー・ベサント夫人らの反対で否決。Basisは最小限の合意事項として位置づけられ、完全な社会主義宣言とはされなかった。
  • 全体の性格: 改訂版は厳格で経済中心。既存の制度(政党・協同組合など)の活用を提案し、漸進的な改革を強調。これにより、協会は中産階級知識人のサロンとして社会的に認知される基盤を築いた。


改訂版「基礎」のテキスト(1887年頃の核心部分)

正確な全文は議事録の不備から記録が限定的であるが、協会の元秘書にして歴史家のエドワード・R・ピースの回顧録『The History of the Fabian Society』(1916年出版)からの直接引用に基づく代表的なテキストは以下の通りである。これは1887年の改訂で明確化したもので、後の1916年版まで基本的に維持された(1907年に男性と女性の平等市民権が追加)。


1887年Basisの完全な英語原文(1907年の追加部分を除く形で抽出)

The Fabian Society consists of Socialists.

It therefore aims at the reorganisation of Society by the emancipation of Land and Industrial Capital from individual and class ownership, and the vesting of them in the community for the general benefit. In this way only can the natural and acquired advantages of the country be equitably shared by the whole people.

The Society accordingly works for the extinction of private property in Land and of the consequent individual appropriation, in the form of Rent, of the price paid for permission to use the earth, as well as for the advantages of superior soils and sites.

The Society, further, works for the transfer to the community of the administration of such industrial Capital as can conveniently be managed socially. For, owing to the monopoly of the means of production in the past, industrial inventions and the transformation of surplus income into Capital have mainly enriched the proprietary class, the worker being now dependent on that class for leave to earn a living.

If these measures be carried out, without compensation (though not without such relief to expropriated individuals as may seem fit to the community), Rent and Interest will be added to the reward of labour, the idle class now living on the labour of others will necessarily disappear, and practical equality of opportunity will be maintained by the spontaneous action of economic forces with much less interference with personal liberty than the present system entails.

For the attainment of these ends the Fabian Society looks to the spread of Socialist opinions, and the social and political changes consequent thereon. It seeks to achieve these ends by the general dissemination of knowledge as to the relation between the individual and Society in its economic, ethical, and political aspects.

(注: 最後の文に「including the establishment of equal citizenship for men and women」が1907年に追加されたため、上記は1887年版の核心を反映。)


日本語訳(原文に忠実に)

フェビアン協会は社会主義者で構成されています。

したがって、土地と産業資本を個人や階級の所有から解放し、それらを一般の利益のために共同体に委ねることで、社会の再編を目指しています。この方法によってのみ、国に自然発生したものと獲得したものの利点を、国民全体が公平に共有できるのです。

協会は、土地の私有財産の消滅と、それに伴う地代という形で土地使用の許可に対する対価の個人による独占的取り分、ならびに優良土壌や立地の利点の消滅を推進します。 さらに、協会は、社会的に管理することが便利な産業資本の管理を共同体に移管するための活動を進めます。なぜなら、過去の生産手段の独占により、産業発明と余剰所得の資本への転換が主に所有者階級を富ませ、労働者はその階級に生活を稼ぐ許可を依存する状況にあるからです。

これらの措置が実施されれば、補償なし(ただし、共同体が適切とみなす没収された個人への救済措置を伴い)で、地代と利子が労働の報酬に加わり、他者の労働に寄生して生きる無為階級は必然的に消失し、実践的な機会の平等は経済力の自然な作用により維持され、現行制度下よりも個人の自由に対する干渉が少なくなるでしょう。

これらの目的達成のため、フェビアン協会は社会主義の意見の普及と、それに伴う社会的・政治的変革を期待します。これらの目的を達成するため、個人の社会との関係(経済的、倫理的、政治的側面)についての知識の一般的な普及を求めます。


日本語訳(意訳)

フェビアン協会は社会主義者で構成されています。そのため、土地と産業資本を個人や階級の所有から解放し、それらを一般の利益のために共同体に委ねることで、社会の再編を目指しています。この手段により、共同体に自然発生したものと獲得したものの利点を公平に分配し、人類の発展を促進することを求めています。

協会は、土地の私有財産の消滅と、すべての産業資本の共同体への移管を推進します。これらは補償なしで行われますが、財産を没収された個人に対する救済措置を伴います。協会は、実践的な機会の平等、無為階級の消失、そして産業とサービスの社会的管理を目指します。これにより、現行制度下よりも個人の自由に対する干渉を少なくします。

協会は、社会主義の意見の普及、男女の平等な市民権の確立、そして個人の社会との関係(経済的、倫理的、政治的側面)についての知識の普及を展望しています。


このテキストは、土地と産業資本の個別・階級所有からの解放と共同体への移管を核心とし、公共権力による産業・サービスの管理への漸進的・平和的な移行を強調している。 刊行後の影響として、1889年の『フェビアン社会主義論集』の理論構築に寄与し、会員急増を促した。なお、後の改訂(例: 1907年)では「men and womenの平等市民権の確立」を追加したが、1887年版は主に経済的側面に焦点を当てている。

「産業とコミュニティのサービスの管理において、公共の権威(public authority)を徐々に平和的に私的所有(private authority)に代える」。ここで「私的所有に代える」は少し誤解を生みやすい表現であるが、英語原文の「substitution of public for private authority」(公共の権威を私的所有の権威に「置き換える」)を指す。

つまり、私的所有(private authority、個人や資本家による所有・管理)を、公共の権威(public authority、共同体や国家による公有・管理)に徐々に平和的に置き換えるという意味である。

  • 「徐々に(gradual)」: 急激な革命ではなく、段階的な改革(例: 法改正や選挙を通じた政策変更)。
  • 「平和的に(peaceful)」: 暴力や強制ではなく、民主的な手段で。
  • 対象: 「産業(industry)」と「コミュニティのサービス(services of the community)」、つまり工場・企業などの生産活動や、教育・医療・交通などの公共サービス。


「公共の権威を徐々に平和的に私的所有に代える(substitution of public for private authority)」は、これは「私的所有(private authority)の管理を、公共・共同体の管理(public/social authority)に置き換える」ことを意味し、急激な変化ではなく「実践的な機会の平等」などの漸進的目標を通じて実現するものである。

これはフェビアン主義の核心を表す表現で、社会主義への移行を「漸進的・非暴力的」に進める方針を示している。フェビアン協会は、資本主義の私的所有を維持したまま徐々に公有化(例: 土地や産業資本の共同体への移管)を目指し、階級闘争ではなく制度改革による人類進歩を信じていた。この考えは、後の労働党の政策(例: NHSの設立や国有化)に影響を与えた。要するに、私的所有中心の経済・社会管理を、公共中心のものに穏やかに置き換えることで、平等で公正な社会を実現するという、フェビアン独特の「遅延戦術」(Fabian strategy)である。

補償なしの公有化を強調しつつ、個人救済を考慮。後の1907年改訂で「男女の平等な市民権」が追加されたが、1887年版ですでに含意されている。このBasisは、経済中心の社会主義宣言として、協会の知的・非革命的性格を定義づけた。


文脈における「無為階級の消失」の意味

フェビアン協会の1887年改訂版理念規定書「基礎」(Basis)で述べられた「無為階級の消失」(the disappearance of the idle class)とは、社会主義改革を通じて、労働せずに富や収入を得る上流階級(資本家、地主、貴族など)の存在を社会的に消滅させることを指す。この概念は、フェビアン主義の核心である漸進的な社会再編(土地・産業資本の公有化)により実現され、全員が生産的に社会に参加する平等な機会の社会を目指すものである。

無為階級(idle class)とは、19世紀イギリスの資本主義社会で、労働や生産活動に寄与せず、土地や資本からの不労所得(rent, interest)で生活する富裕層を指す。デヴィッド・リカードの地代論(rent theory)の影響を受け、こうした「超過利潤」が社会的不平等を生むと批判されていた。フェビアン主義では、これを「人類進歩の障害」と見なし、階級闘争ではなく制度改革で解消すべきと主張。

改訂版Basisでは、「土地の私有財産の消滅」「産業資本の共同体移管」と並んで挙げられ、「実践的な機会の平等(practical equality of opportunity)」と結びつく。これにより、無為階級が消滅し、個人の自由を損なわず社会的管理(例: 公共サービス化)で福祉を促進する社会を展望。

この考えは、1889年の『フェビアン社会主義論集』で理論化され、後の英国労働党の政策(例: 福祉国家の構築)に繋がった。マルクス主義の「ブルジョワジー消滅」と似つつ、暴力革命を否定する点がフェビアンの特色である。

この用語は、フェビアン社会主義の経済的・倫理的目標を象徴し、中産階級知識人の視点から「客間の社会主義」を体現している。

政党への参加

フェビアンは当初、国内問題に主な関心があり、ロンドンだけが活動範囲であったが、ボーア戦争が始まる1900年頃には、対外問題も議論するようになる。フェビアンは自由帝国主義を唱えるローズベリーを支持し、「国民的効率」を目指す新党結成を計画する。その中で、ウェッブ夫妻は新党を準備するためのブレーン・トラストとして、「効率懇話会」を結成する。また、多くのフェビアン(フェビアン協会のメンバー)が、1900年の労働党の前身となる労働代表委員会結成に参加した。

こうした動きにもかかわらず、協会の影響力は衰え、1903年にはH・G・ウェルズが加入すると他のメンバーと内輪もめを起こし、協会内は混乱することになる。しかし、1907年から1908年にかけて、オックスフォードケンブリッジの学生達がフェビアン主義に興味を抱き、協会は第2のブームを迎える。2つの世界大戦の期間には、第2世代のフェビアンであるR・H・トーニー、G・D・H・コール、ハロルド・ラスキが、社会民主主義思想に大きな影響を与えつづけていた。

組織が拡充する一方で、圧力団体として行政による市民への保障を重視するウェッブなど古参会員と、労働組合を媒介した民主的統治を重視するコールなど若手のギルド社会主義者との軋轢が表面化するようになる[2]。対立の溝は埋めがたく、1915年にはコールがフェビアン協会を離脱している。

1914年第一次世界大戦が始まると戦時下での労働者保護を目的として、労働党の党首アーサー・ヘンダーソンを委員長とする連合団体「戦時労働者全国委員会」が組織され、多くのフェビアン協会員が委員として参加した。この活動を通して労働党とフェビアン協会の連携が強まり[2]、1915年にはシドニー・ウェッブがフェビアン協会代表として労働党執行部に加わった。1918年に労働党の新綱領が採択されるとともに、シドニー・ウェッブが執筆した政策宣言『労働党と新社会秩序』の表明によって、労働党の社会主義へのコミットメントが明確となった。翌1919年にはフェビアン協会の「基礎」も大きく改訂され、フェビアン協会が労働党の構成団体であることを明確化した。また、従来のプロパガンダ活動に加え、政策研究集団としての活動を打ち出した。

この時期、第三世界の将来のリーダーとなる多くの者がフェビアン思想に感化された。特に、インドネールは、フェビアンの社会民主主義に基づき、独立後のインドで混合経済体制を運営した。

1928年にフェビアン協会に再合流したコールが、ヒュー・ドルトン、ハーバード・モリソン、クレメント・アトリー、ハロルド・ラスキなどとともに「新フェビアン調査局」を組織し社会主義的な政策研究を進めた。1939年に調査局がフェビアン協会に吸収されることによって、フェビアン協会が労働党のシンクタンクとして実質的に稼働するようになる。1930年代にはその他にも、ガルブレイス、ビーヴァーブルック、バートランド・ラッセル、スチュアート・チェース、ヘンリー・ウォラスが活躍することになる。


なお、『1984年』の原作者、ジョージ・オーウェル(George Orwell)もメンバーの一人だったとされることもある[4]が、その証拠はない。むしろ、彼はフェビアン協会を批判的に見なし、中産階級の知識人による「権力志向の社会主義」として距離を置いていた。例えば、1937年の著書『Wigan Pierへの道』で、フェビアン主義者のような中産階級社会主義者を痛烈に批判している。

「オーウェルは、王室の子供が通うエリート学校のイートン校でオルダス・ハクスリーからフランス語を学び、二人は生涯の友になった」とする説がある。これについては事実である。

イートン校は英国の名門パブリックスクールで、王族の子供が通うエリート校として知られているが、オーウェルは1917年から1921年まで奨学生として在籍していた。オーウェルはイートン校でハクスリーからフランス語を学んでいた。ハクスリーは1917-1918年に同校で英語とフランス語を教え、生徒たちはハクスリーの言語の洗練さに感銘を受けていた。ハクスリーとオーウェルの二人は生涯にわたり友人関係を維持し、互いの作品を尊重し合った。例えば、1949年にオーウェルが『1984年』を出版した際、ハクスリーは手紙で感想を送り、自身の『すばらしい新世界』との比較を述べている。これは単なる教師-生徒関係を超えた、知的交流を示している。

一方、「オーウェルは、ハクスリーの紹介でフェビアン協会に入ったが、協会に幻滅した。そこで収集した情報を「暴露」したのが「1984年」である」とする説も存在するが、こちらについては、少なくとも、信頼できる証拠が不足している。

オーウェルがフェビアン協会の正式メンバーだったという信頼できる記録は存在しない。ハクスリーは確かにフェビアン協会メンバーであったが、オーウェルを紹介したという証拠は見つかっていない。

オーウェルの政治活動は、主に独立労働党(ILP)やPOUM(スペイン内戦時の反スターリン派マルクス主義者)と結びついていた。 オーウェルは1930年代に社会主義者となったが、スペイン内戦(1936-1937年)での経験(スターリン派によるPOUM弾圧)で共産主義に強い幻滅を抱き、これが『カタルーニャ賛歌』(1938年)や『動物農場』(1945年)に反映された。

『1984年』(1949年)は全体主義(特にスターリン主義)の批判として書かれたが、タイトルの「1984年」の由来は、「執筆年である1948年の数字を逆にした」とする説が主流で、「フェビアン協会設立(1884年)の100年後の未来の世界を指す」とする説は、一部の推測に過ぎない。

オーウェルは、民主的社会主義を信じつつ、権力の腐敗を警戒した。フェビアン(漸進的改革)はむしろ、彼の初期の理想に近い存在であったが、フェビアン協会の「陰謀計画(未来予定図)」を「暴露」したという証拠はない。たとえ、現実が実際に『1984年』の世界を目指すように動いているとしても。


オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)は、青年期にフェビアン協会と接触し、メンバーとして参加していた。具体的な加入日は記録されていないが、最初の接触は1908年から1920年の間(オックスフォード大学在学中を含む時期)とされている。この頃、ハクスリーはバートランド・ラッセルらを通じて協会に関わり、社会主義的思想に影響を受けた。1920年代以降は、フェビアン主義から距離を置き、平和主義や東洋思想へ移行している。

なお、H.G.ウェルズは、ジュリアンやオルダスの祖父であるトーマス・ヘンリー・ハクスリーの教え子である。ウェルズは1884年からロンドンのNormal School of Science(現・インペリアル・カレッジ・ロンドン)で生物学を学び、トーマスが講師を務めていた。この師弟関係は、ウェルズの科学フィクション作品に大きな影響を与え、ウェルズ自身もトーマスを「生物学の巨匠」と敬愛し、進化論の影響を自伝で語っている。


フェビアン協会は、20世紀を通して労働党に常に影響力をもっており、21世紀に入ってもそれは続いている。労働党の党首およびイギリスの首相となったラムゼイ・マクドナルドクレメント・アトリー、アンソニー・クロスランド、リチャード・クロスマン、トニー・ベンハロルド・ウィルソントニー・ブレアらがフェビアン協会のメンバーであった。ゴードン・ブラウンもその一員である。

脚注

  1. ^ a b 名古 2007, pp. 38–39.
  2. ^ a b c 光永 2005, pp. 150–162.
  3. ^ 吉村正和 著 『心霊の文化史—スピリチュアルな英国近代』河出書房新社、2010年
  4. ^ オーウェルが警告した近未来の全体主義社会 - 反ユートピア小説「1984」出版から70年 - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、ロンドン・イギリス情報誌 - 英国ニュースダイジェスト”. www.news-digest.co.uk. 2023年6月6日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク




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