ヒューブライン時代・R.J.レイノルズ時代
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「ケンタッキーフライドチキンの歴史」の記事における「ヒューブライン時代・R.J.レイノルズ時代」の解説
かつて、サンダースにとってあまりに巨大な存在となったケンタッキーフライドチキンは、ブラウンにとっても手に負えないものに成長していた。1971年7月、ブラウンはKFCを、コネチカット州に本拠を置く加工食品・加工飲料会社のヒューブライン(英語版)社に2億8500万ドルで売却した。ブラウン個人がこの売却によって得た金額はおよそ3500万ドルだった。ロイターの見解では、KFCはこの買収によって破綻から救い出された可能性が高い。ヒューブライン社は、自らが持つセールスとマーケティングの専門知識を生かしてKFCの売上高を伸ばすことを計画していた。 その間、チャーチズ・チキンは店内に座席を設け、さらにオリジナルの「クリスピーチキン」を提供することでKFCの市場シェアを奪い始めていた。1972年、KFCは独自の「エキストラ・クリスピーチキン」を商品ラインナップに加えた。1973年に発売されたバーベキュースペアリブは、経営上の「とてつもない」問題を引き起こした。この商品の販売が開始されたあと、豚肉の不足が起こり、KFC商品の価格が購買意欲を低下させるレベルまで押し上げられた。スペアリブの販売が経営上の判断により停止されたとき、経営陣はフライドチキンの売り上げが減少していることに気がついた。その頃、サンダースは会社を売却したことをますます後悔するようになっており、新オーナーとサンダースの関係は悪化していた。サンダースは、KFC商品の劣化する品質への不満をメディアに語り始めた。 「なんてこった、あのグレービーソースは最悪だ!彼らは15 - 20セントで水道水を1000ガロン買ってきて、そこに小麦粉とデンプンを混ぜ合わせて、純然たるウォールペーパーペースト(壁紙を貼付けるための糊)のできあがり、というわけだ。……それに、あの新しいクリスピーチキンのレシピは、くだらないパン生地を丸めて揚げたのをチキンに貼りつけただけに過ぎないね。」 この刺激的な発言を受けて、ボーリンググリーン (ケンタッキー州)のあるKFC加盟者はサンダースを名誉毀損で訴えようとしたが、この試みは失敗した。1973年、サンダースがケンタッキー州シェルビービルで、「カーネル夫人、クラウディア・サンダースのディナーハウス」という名のレストランを開業したことに関して、ヒューブライン社はサンダースを訴えようとした。サンダースは報復として、自らが開発に関与していない商品の宣伝に自分(サンダース)の肖像を不正利用したこと、および自らがレストランをフランチャイズ展開することへの妨害行為でヒューブライン社を訴える構えを見せ、1億2200万ドルを求めるとした。ヒューブライン社の広報担当者は、サンダースの動きを「嫌がらせ訴訟」であると表現した。1975年、サンダースはヒューブライン社との示談に応じ、ヒューブライン社はサンダースに100万ドルを支払い、レストラン事業もその名前を「クラウディア・サンダース・ディナーハウス」に改めた上で継続することが許可された。 ヒューブライン社には過去にファストフード店を経営した経験がなく、その自信過剰な経営は香港のような海外市場においてKFCを失速させた。1975年には2年間の活動の後、KFCは香港での事業から撤退した。サンダースは公然とヒューブライン社への批判を続け、1976年には同社が「やってることを何もわかっていない」と批判し、現状のひどい品質の商品と関係があるように自分のイメージが使われているのは「まったくもって恥ずかしいこと」だと述べた 。1978年までには、800もの直営店が不採算店舗となっていた。 1977年、ヒューブライン社はマイケル・A・マイルズをKFCチェーンの経営者に抜擢した。マイルズは、経営難のKFCを原点回帰路線で立て直した功労者と見なされている。マイルズは店舗の改装を推し進め、店内に座席を設けた上で、ドライブスルー用の窓口も導入した。電子レジスターの導入により、日々の顧客数、在庫目録、損益計算書の確認が可能になり、問題をすぐに認識できるようになった。KFCは70年代から80年代にかけて国際的な展開(特に日本、オーストラリア、イギリス)を推し進めた。マイルズはさらに、サンダースをKFCへと復帰するよう誘い、ビジネスにおけるサンダースの提言にも耳を傾けた。後に続く変革は結果として現れ始め、1980年の暮れには1店舗当たりの売上高の上昇が30ヶ月連続となった。 1980年には、肺炎によりハーランド・サンダースが90歳で死去した。サンダースは死の直前まで、自らの商品を宣伝しつつ、年間20万 - 25万マイルを主に車を利用して旅していた。自身を「カーネル・サンダース」としてブランド化することで、アメリカ文化史における重要な人物の1人となったサンダースのイメージは、今もなおKFCの宣伝に広く利用され続けている。 1983年の時点で、全世界55の国で5800のKFC店舗が存在していた。同じ1983年には、ゼネラル・シネマ(英語版)がヒューブライン社の株式の18パーセントを取得した。敵対的買収を警戒したヒューブライン社は、タバコ会社R.J.レイノルズに自社のホワイト・ナイトとなるよう申し入れ、R.J.レイノルズが13億ドルでヒューブライン社を買収することになった。同年にはさらに、マイケル・A・マイルズがクラフトフーヅのCEOに就任するためKFCの会長を辞任し、リチャード・メイヤーがその後を継いだ。R.J.レイノルズの傘下となったKFCは、1983年にマクドナルドチェーン全体で展開されたチキンマックナゲットとの競争を強いられた。KFCは1985年に「ケンタッキーナゲット」と呼ばれる独自ブランドのチキンナゲットを発売した。1984年、R.J.レイノルズは1億6800万ドルを投じてKFCの増資を行った。
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