ヒットと社会現象
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 21:53 UTC 版)
「スペースインベーダー」の記事における「ヒットと社会現象」の解説
インカム(筐体がもたらす収入。プレーヤーたちが払ってくれるプレイ料)は1日で2~3万円に及び、筐体価格が46万円であり元金がすぐに回収できるため、タイトーに注文が殺到する事態となった。この結果、本作はゲームコーナーだけでなく飲食店などにも設置される事となった。注文の殺到により生産が追い付かなくなったことから、日本で初めてライセンス許諾を他メーカーに与えることとなった。 「ライセンス」も参照 大ヒットしたことで「インベーダーハウス」と呼ばれる、本作の筺体を並べた施設が日本全国各地に乱立した。 大ヒットした頃には国民が一丸となってインベーダーゲームにお金を使うようになったことで、その軍資金となる100円玉が枯渇してしまい、日本銀行は急遽月の3倍にあたる66億円もの100円玉を市中に流した。 喫茶店の経営者の間では、インベーダーゲームを設置すると客が増え、副収入にもなると評判になり、店内のテーブルをいくつも、(後述の)テーブル筐体に置き換えることが大流行した。喫茶店の中にはテーブルのほとんど全てを本作のテーブル筺体に置き換えてしまうような、スペースインベーダーゲームを客に提供することのほうがむしろ本業と言えるような、「インベーダー喫茶」も出現した。 ブームの時期から亜種のブームの時期にかけて、駄菓子屋や、中・高生などが下校時に立ち寄るような、パン・ミルクなどを販売している店のオーナーたちの間でも、ブームに便乗して副収入を得ようと思う人が続出、またコピーゲームを作るメーカーからも駄菓子屋などにさかんに売り込みが行われ、駄菓子屋や学生向け食べ物屋の店先に(一部に本家のスペース・インベーダーもあったが)設置された。コピーゲームでは50円から10円と格安な設定が多かった。 さまざまな業種の待合室など、設置できる場所が少しでもあれば、一見したところ不釣り合いとも思える場所ですら本作が設置される、ということがいたるところで起きた。 以下、当時のタイトー社員の体験談なども含む。 販売当初の価格は最盛期には数百万円に跳ね上がっても売れていったという。 タイトー本社は当時、東京の平河町(砂防会館の真前)にあり、永田町と近隣であった。そのため、『スペースインベーダー』の納入を切望する業者から依頼された国会議員が、「5000万円で売れ!」などとお忍びで談判に来た、というエピソードもあった。 当時タイトー新入社員のボーナスが100万円だったという都市伝説があるが、当時はゲーム開発者への報奨金は確立されておらず、開発者の西角は社長賞として約10万円を表彰台で貰っただけだったという。 集金袋を回収するのにライトバンではとうてい間に合わず、4トントラックで回収を行っていた。しかしその4トントラックですら板バネサスペンションが100円玉の重みに耐えきれず、曲がってしまう事故が頻発していた。これに派生する都市伝説として、トラックから機械や硬貨を上げ下げすることから重迫病を患う者が続出したため、タイトーが三菱ふそうに相談してトラックの後部に装着する電動リフトを日本で最初に発明した(ないしはタイトーは「今後の世の中への貢献」を理由にこれについての特許などを取得していない)といったものがある[要出典]が、パワーゲートは1964年に極東開発工業が開発したものであるため、明らかに誤りである。 人々が熱中した結果、パチンコ業界は全国的に客の入りが悪くなった。パチンコ台メーカーは苦肉の策で、インベーダーゲームをモチーフにした台を販売したが人気は得られず、客入りは衰えたままで、冬の時代を迎え、パチンコ屋とゲームセンターを兼業、またはゲームセンターへの転業も多く見られた。この状況は打倒インベーダーを目指して開発された、1980年のフィーバーの登場まで続くこととなった 画面への照明の「うつりこみ」を防止するために店内が暗くされる傾向があったため、薄暗い店内は不健全であり、非行の温床になるとの考えから、多くの学校でゲームセンターへの入場禁止の通達を出す措置が講じられた。 当時アメリカ合衆国のカリフォルニア大学バークレー校の学生だった孫正義は、日本でのブームが過ぎた頃、日本で余剰となったゲーム機をアメリカに持ち込んで現地のレストラン等にリースするビジネスを始めた。孫が持ち込んだゲーム機は合計350台、半年間で1億円を超える儲けを得た。
※この「ヒットと社会現象」の解説は、「スペースインベーダー」の解説の一部です。
「ヒットと社会現象」を含む「スペースインベーダー」の記事については、「スペースインベーダー」の概要を参照ください。
- ヒットと社会現象のページへのリンク