サバン・エンターテイメント時代
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「パワーレンジャー」の記事における「サバン・エンターテイメント時代」の解説
1991年、サバン・エンターテイメントから東映にスーパー戦隊シリーズの輸入が打診される。サバン側は特撮作品に注目しており、数年かけて研究や準備を続けていた。東映は当初、米国展開に懐疑的だったが、東映スタッフとの会談の席でスーパー戦隊シリーズの主題歌を歌うなどしたサバンの熱意に押され、米国展開を決める。 ハイム・サバンはスーパー戦隊シリーズのドラマパートをアメリカ向けのストーリーに作り直し、戦闘シーンの映像は可能な限り日本の映像を流用しつつ、必要に応じてアメリカで撮影するというパワーレンジャーシリーズのコンセプトを東映側に提案。東映側はスーパー戦隊シリーズをそのままアメリカで放送したい意向だったが、日本人だけが出演する番組はアメリカでは受け入れられないことと、日本のアクション描写がアメリカの放送コードを通らないなどの事情から、スーパー戦隊シリーズをアメリカで放送することは難しいと言われた東映側は映像をサバン側に送り、アメリカで問題のあるシーンを指摘するように依頼。その結果、ほとんどのシーンがアメリカの放送コードに接触すると指摘される。その後も交渉が続けられ、完成した作品の形となった、1993年にシリーズ1作目となる『マイティ・モーフィン・パワーレンジャー』がFox Kidsにて放送開始。制作にあたって、単独のヒーローに慣れた米国人スタッフには5人組のヒーローへの違和感があったが、「皆で力を合わせ、欠点を補い合って戦う」点が米国になかったアイデアとして受け入れられた。 ルーカスライセンシング社のハワード・ロフマンに「日本の実写スーパーヒーローのガラクタではサバンがたいした成功をしないだろう」と言われ、フォックス放送社長のルーシー・サルハニーも難色を示していたが、アメリカで放送されるやたちまち大ヒットとなり社会現象となった。その人気たるや政治家がスピーチ会場にパワーレンジャーを呼び、人気取りをするほどだったという。特にグリーンレンジャー(ドラゴンレンジャー)登場編はアメリカの子供番組史上で最高の視聴率を記録した。本来は全40話で終了する予定だったが、この人気を受けて60話まで延長され、これ以降のシリーズ化も決定した。 人気のピークだった1994年には、バンダイアメリカが発売した変形するヒーロー人形は1年で1600万個以上売れるシリーズ最大のヒット商品となり、1994年当時トイザらスのCEOだったマイケル・ゴールドスタインは「(パワーレンジャーの玩具は)入荷した当日か翌日には全て売切れてしまう」と述べ、同年にはハロウィン用のパワーレンジャーコスチュームが過去最高の売り上げを記録している。 同年のアメリカにおけるパワーレンジャー関係の売り上げは10億ドルを超えたとされ、全世界合計では16億ドルを記録した。バンダイのパワーレンジャー玩具の売り上げは1993年の27億円から大きく伸び、アメリカ国内では320億円、全世界合計では400億円となった。同年のサバン社の利益は5億ドルを超えたと言われている。 アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ジングル・オール・ザ・ウェイ』は、クリスマスにパワーレンジャーの玩具が入手困難になる現象に着想を得て制作された。 吉川進は「パワーレンジャーで国外にマーケットが広がったことで、終了が決定的になっていたスーパー戦隊シリーズの継続が可能となった」と述べ、東映内部の格付けにおいて最下位に位置していた子供向け番組の地位向上にも繋がったとしている。 反ドラッグ・反暴力プログラムNPO、D.A.R.E.のキャラクターに採用されており、キャンペーンCMなどが制作された。 1995年にテレビシリーズの成功を受けて、『パワーレンジャー 映画版』が20世紀フォックス主導で制作され、同年の子ども向け映画における興行収入第10位の作品となった。1997年には『パワーレンジャー・ターボ・映画版・誕生!ターボパワー』が制作され、20世紀フォックス配給で公開された。
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