トニー・サウスゲートとは? わかりやすく解説

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トニー・サウスゲート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 05:34 UTC 版)

トニー・サウスゲートTony Southgate, 1940年5月25日 - )は、イギリス出身のレースカーデザイナーである[1]。そのキャリアにおいて、フォーミュラカースポーツプロトタイプの設計を手掛け、F1だけで20年以上のキャリアを持ち、スポーツプロトタイプでは1988年のル・マン24時間レースの優勝車両であるジャガー・XJR-9LMの設計で特に知られる。設計した車両がF1のグランプリレース、ル・マン24時間レースインディ500のいずれにおいても優勝している唯一人のカーデザイナーであるとされる[2][1][注釈 1]


注釈

  1. ^ インディのイーグル・Mk4(1968年のインディ500英語版優勝)、F1のBRM車両(P160B1972年モナコグランプリ優勝)など、ルマンのTWRジャガー車両(後述)がそれぞれ達成。世界三大レースも全て勝っていることになる。他のデザイナーでいずれか2つのレースの優勝車両を設計した者としては、ヴィットリオ・ヤーノ(ルマン・F1)、ルドルフ・ウーレンハウト(ルマン・F1)、コーリン・チャップマン(F1・インディ500)、ジョン・バーナード(インディ500・F1)、エイドリアン・ニューウェイ(インディ500・F1)、ゴードン・マレー(F1・ルマン)など、複数名いるが、3つ目を達成していないか、そもそも車両を設計する機会を持てていない。サウスゲートの雇い主となるエリック・ブロードレイ後述)は、インディ500とF1で優勝車両を設計しているほか、フォード・GT40の設計にも関わっているが、ルマン優勝車両のGT40 Mk.II(1966年)の頃には開発に関わっていないため、単独の設計者とはみなし難い[1]。世界三大レースを全て制したことは、サウスゲートも自身のキャリアで最大の業績と自認している[3]
  2. ^ 750モータークラブはオースチン・7の750ccエンジンを使ったレースカー制作を目的として1939年に発足した同好会で、後にサウスゲートの雇い主となるエリック・ブロードレイコーリン・チャップマンといった、イギリスレース界を代表するようなエンジニアたちが会員として名を連ねていた[4]
  3. ^ 速く運転するのは下手だと自覚したと述懐している[3]
  4. ^ 但し、設計に関わった者はブロードレイを含め3名だったとサウスゲートは語る[2]
  5. ^ グラハム・ヒルにとってインディ500での唯一の優勝で、この後、ヒルは1972年にル・マン24時間レースを優勝し、世界三大レース全ての優勝を達成する。
  6. ^ RA300の流用元となった車両は単に「T90」とされることが多いが、正確にはT90をアップデートした1967年型仕様で、区別して「T92」あるいは「T90 MkII」と呼ばれることもある[12]
  7. ^ サウスゲートの発言による[2]
  8. ^ この時点ではラッドとライトも車体底面の側面を密閉するという発想にまで至っていなかった。
  9. ^ 同時期にアラン・リースもシャドウに加入[15]
  10. ^ サウスゲートはDN5のことを「ローリングロードを使って開発された最初のF1カー」だと語る[14]
  11. ^ この奇妙な移籍については、チャップマンを非常に尊敬しておりその仕事を近くで見たかったというのが最大の理由だった、と、サウスゲートは後年語っている[17]。加えて、チャップマンがサウスゲートにシャドウ時代の倍の報酬を支払った[5]、など、他の理由もいくつかあったらしい[17]
  12. ^ ロータス・78の登場時、他チームは速さの秘密やサイドスカートが果たす効果は理解されていなかった[14]
  13. ^ アロウズは、前年にシャドウの債務を引き受けて債権者となったオリバーと、シャドウのオーナーのドン・ニコルズの交渉決裂に端を発して創設されている(バーニー・エクレストンが仲裁に入りオリバーがシャドウを買収するという交渉をしたが、ニコルズが拒否したためオリバーは新チームを作った)[18]。基本的にシャドウの主要メンバーはチームに不満を持っていたため、新チームのためのファクトリーをオリバーが用意した際、主要メンバーのほぼ全員がオリバーとの移籍交渉を即決したが、サウスゲートは(なぜか)一旦保留したとオリバーは述懐している[18]
  14. ^ 判決が出たのは7月31日で、FA1は7月30日決勝の第11戦ドイツGPを最後に使われなくなり、新車のA1は2週間後の第12戦オーストリアGPから投入された。シャドウのオーナーのドン・ニコルズはA1もDN9のコピーに違いないと重ねて法的に訴えたが、A1は主要な部分はDN9と設計を変えていたため、ニコルズの主張は退けられた[3][1]。アロウズ設立の一連の争いで、ドン・ニコルズはジャッキー・オリバーやアラン・リースとは完全に決別したが、サウスゲートとはそれほど険悪な関係にはならず、その後も新しいチームの構想にサウスゲートを誘うことがあったという[3]
  15. ^ 結果的にこの試みは失敗して、アロウズはヴァルシュタイナーを失い、ブルナーらも早期に去っている。
  16. ^ サウスゲートは、RS200を設計するまでラリーカーの設計経験は全くなかったが、それだけに「新鮮だった」として、生涯で自身が中心となって設計した40台以上の車の中でも、RS200を特にお気に入りの1台に挙げている[3]
  17. ^ サウスゲートが関わっていないXJR-14と、プライベーター扱いの車両を除く。
  18. ^ サウスゲートは引退後にTWR時代を述懐して、ウォーキンショーとの関係も極めて良好で、渡り歩いた他の数々のチームと比べてもTWRは「おそらくキャリアで最良だった」としている[3]
  19. ^ 設計と開発はTRD童夢が行っており、サウスゲートはアドバイザーとして関わった[20]。TS010は開発方針を変更したことで完成が遅れているが、この方針変更はチーム監督の齋藤治彦の決断によるもので[21]、サウスゲートの意向によるものというわけではないという[20]
  20. ^ 設計はダラーラが行った。
  21. ^ 車体設計を行った。R390の原型であるジャガー・XJR-15の車体設計もサウスゲートがしている。
  22. ^ 設計は流用しているものの、車体はTWRに保管されていたXJR-15そのものを流用したわけではなく、メインモノコックのように流用したパーツもあるにはあるものの、車体は全て新造している[22]
  23. ^ サウスゲートは関わっていない。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Simon Taylor (2012年6月). “Lunch with .... Tony Southgate” (英語). Motor Sport Magazine. p. 81. 2017年11月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k The British at Indianapolis(Wagstaff 2010)、「Chapter 10: The Eagles' Wings - Len Terry and Tony Southgate」 pp.88–95
  3. ^ a b c d e f g h Tony Southgate (2006年1月). “In the hot seat - Tony Southgate” (英語). Motor Sport Magazine. p. 34. 2017年11月22日閲覧。
  4. ^ a b Famous Members”. 750 Motor Club. 2017年9月3日閲覧。
  5. ^ a b c Simon Taylor (2006年5月). “Simon Taylor's Notebook” (英語). Motor Sport Magazine. p. 107. 2017年11月22日閲覧。
  6. ^ Southgate, Tony (2010). From Drawing Board to Chequered Flag. Croydon, UK: Motor Racing Publications. ISBN 978-1-899870-82-0 
  7. ^ Lawrence, Mike (2006年4月25日). “Gascoyne”. Pitpass.com (Pitpass.com). https://www.pitpass.com/public/article.php?fes_art_id=27814 2017年9月3日閲覧。 
  8. ^ Dron, Tony (2005年12月17日). “Lola”. The Telegraph (London: Telegraph Media Group Limited). http://www.telegraph.co.uk/motoring/2738933/Lola.html 2017年9月3日閲覧。 
  9. ^ Owen, Richard. “1967-1969 Lola T70 Mk3 Coupé”. Supercars.net. Supercars.net Publishing. 2017年9月3日閲覧。
  10. ^ Wagstaff, Ian (2010). The British at Indianapolis. Dorchester, England: Veloce Publishing. pp. 92–95. ISBN 978-1-84584-246-8 
  11. ^ RacingOn Vol.458 ホンダF1 第1期の閃光、「トニーサウスゲートに訊く──"ホンドーラ"の真実」 pp.36–37
  12. ^ Lola T92 1967” (英語). Lola Heritage. 2017年11月22日閲覧。
  13. ^ 佐野彰一、高木理恵. “佐野教授の「60'S Honda F1物語」 ローラというパートナー”. 本田技研工業. 2017年11月22日閲覧。
  14. ^ a b c d e f Adam Cooper (2014年7月). “Something in the air” (英語). Motor Sport Magazine. p. 149. 2017年11月26日閲覧。
  15. ^ Andrew Marriott (1972年11月). “Mosport Murmurs” (英語). Motor Sport Magazine. p. 41. 2017年11月22日閲覧。
  16. ^ People: Tony Southgate”. GP Encyclopedia. Inside F1, Inc.. 2017年9月3日閲覧。
  17. ^ a b Tony Southgate (2005年4月). “My hero -- by Tony Southgate” (英語). Motor Sport Magazine. p. 9. 2017年11月22日閲覧。
  18. ^ a b c d Simon Taylor (2009年6月). “Lunch with... Jackie Oliver” (英語). Motor Sport Magazine. p. 74. 2017年11月22日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g h RacingOn Vol.472 Jaguar's C、「[証言]トニー・サウスゲート [ポルシェには勝てる 最初からそう思っていた」(トニー・サウスゲート、大谷達也) pp.30–33
  20. ^ a b RacingOn Archives Vol.01、「[特集]トヨタのル・マン挑戦初期・最終決算 彼岸と自信と期待を乗せて……"因縁"を背負ったTS010 - マシンギャラリー&マシン概要解説」(大串信) pp.126ndash;131
  21. ^ RacingOn Archives Vol.01、「[特集]トヨタのル・マン挑戦初期・最終決算 彼岸と自信と期待を乗せて……"因縁"を背負ったTS010 - 総括インタビュー:齋藤治彦」(椎橋俊之) pp.132ndash;135
  22. ^ RacingOn Vol.463 NISMO、「ニッサンプロトタイプR390/R391のル・マンチャレンジ ニッサンが再び世界の頂点を掴みかけた時」(大内明彦) pp.44–53


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