チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ
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「第12軍団 (北軍)」の記事における「チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ」の解説
チャンセラーズヴィルの戦いでは、第11軍団と第12軍団が大打撃を受けた。しかし、大敗北の混乱の中、第12軍団所属の連隊は前線を突破されること無く、軍旗も失うことも無かった。チャンセラーハウスでの接近戦に参加した砲兵隊も、1門の砲も失うこと無しに撤退に成功した。この作戦において、第12軍団は最初にラピダン川(ラパハノック川の支流)を渡り、撤退時には最後にラパハノック川を渡河した。作戦時の軍団の兵力は、30個歩兵連隊、5個野砲中隊で、実人員19,929人であった。チャンセラーズヴィルでの損害は、戦死260人、戦傷1,436人、行方不明1,119人の合計2,814人であった。師団長はウィリアムズとジョン・ギアリーであった。トーマス・ラガー(Thomas H. Ruger)准将とチャールズ・キャンディ(Charles Candy)大佐の旅団が最も被害を受けた。 ゲティスバーグの戦いでは、第12軍団はカルプスヒルの勇敢な防衛戦で有名となった。スローカムはゲティスバーグでは右翼の司令官を務めたため、代わってウィリアムズが軍団長となった。第1師団の師団長は第3旅団長のルガーが務めた。第2師団長はギアリーであった。 7月2日の午後、ポトマック軍司令官のジョージ・ミードは、第12軍団にカルプスヒルを離れてリトルラウンドトップ近くの北軍最左翼を補強するように命令した。スローカムはその重要性に鑑み、ミードを説得してギアリー師団のジョージ・S・グリーンの旅団をカルプスヒルに残させた。1個旅団で防衛するにはカルプスヒルの前線は長く、したがって防御ラインの厚みは無くまた他の部隊からの支援は期待できなかった。民間のエンジニアであったグリーンは、効果的な野戦防御線を構築した。カルプスヒルは南軍エドワード・ジョンソン師団の攻撃を受けたが、グリーン旅団はこれを撃退するのに成功した。グリーンは部下たちに丘を死守するように命じたが、ジョンソンの幾つかの部隊は抵抗を受けること無く、第12軍団が築いていた空になった胸壁に達した。夜になって第12軍団の兵士達が戻って来ると、南軍を排除するための絶望的な戦闘が発生した。長時間に渡る激しい戦闘の後、第12軍団は胸壁の再奪取に成功した。第12軍団の前には、何軍兵士の死体が積み重なっていた。ジョンソン師団は22個連隊から構成されていたが、戦死229人、戦傷1,269人、行方不明375人の合計1,873人の損害を出した。ジョンソン師団の支援のために派遣された、ウィリアム・スミス、ジュニアス・ダニエル(Junius Daniel)及びエドワード・オニール(Edward A. O'Neal)の3個旅団・14個連隊が受けた損害も、これに加えなければならない。他方、第12軍団が受けた損害は、戦死204人、戦傷810人、行方不明67人の合計1,081人であった。
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チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ
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「第11軍団 (北軍)」の記事における「チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ」の解説
1863年2月にポトマック軍の司令官がジョセフ・フッカーに交代すると、シーゲルはポトマック軍内で序列2位の将官となった。このことと、第11軍団の規模が他の軍団と比較して小さかったことから、シーゲルは軍団の規模拡大を願い出た。彼の申し出は拒否され、怒ったシーゲルは軍団長を辞任した。後任には、自身より後任のダニエル・シックルズが先に軍団長になったことに不満をいだいていた、オリバー・O・ハワード少将が就任した。 ハワード少将は、1863年5月1日-3日のチャンセラーズヴィルの戦いで軍団の指揮を務めたが、構成はチャールズ・デヴァンス(Charles Devens)、フォン・シュタインヴェール及びシュルツの3個師団、実働12,619人であり、27個連対中13個連隊がドイツ人連隊であった。第11軍団の兵は経験を積んだ古参兵が多かったが、軍団長がドイツ人のシーゲルからハワードに代わったことで士気は落ちていた。5月1日、南軍のロバート・E・リー大将とその部下のストーンウォール・ジャクソンは、リスクは高いが大胆不敵な攻撃計画を決定した。南軍はチャンセラーズヴィルの4万の兵を分割し、ジャクソンが南軍第2軍団の28,000人を率いて北軍の右側面を攻撃することとした。5月2日、ジャクソンはこの計画を完璧に実行し、北軍右翼に密かに回り込んだが、不運な第11軍団が攻撃対象となった。北軍右翼は川や山といった地形上の障害物で守られているわけではなく、「開放」されていた。ハワードは南軍が彼の前線を攻撃する可能性があることを警告されていたが、ジャクソンの攻撃に対して何の準備もしていなかった。午後6時にジャクソンの軍団が攻撃を開始したとき、第11軍団は全く戦闘準備ができておらず、多くが夕食を食べている最中であった。攻撃は完全に成功し、ジャクソンの軍歴の中でも最高得点に値するものであった。いくつかの旅団は戦闘のために前線を移動させたり、1時間以上勇敢に抵抗し、敵の進撃を遅滞させ、その後秩序を保って後退することができたが、第11軍団全体にとっては大惨事となった。チャンセラーズヴィルでの第11軍団の損害は、戦死217人、戦傷1,218人、捕虜・行方不明972人の、合計2,407人であった。 ゲティスバーグの戦いでも軍司令官はハワードが努め、師団長はフランシス・C・バーロー、フォン・シュタインヴェール、シュルツで、26個歩兵連隊と5個砲兵中隊から構成されていた。兵士たちは、チャンセラーズヴィルでの汚名を注ぐ希望をもって戦場に向かった。6月1日の昼頃、軍団は町の南部に到着したが、第1軍団が町の西で既に戦闘に入ったことを知った。ハワードはフォン・シュタインヴェールの師団をセメタリーヒルの高地に予備として配置し、残りの2個師団を北に向かわせた。ハワードは、ウィンフィールド・スコット・ハンコックが到着するまでの暫くの間、戦闘全体の指揮をとった。 南軍リチャード・イーウェルの第2軍団から北方から到着し、圧倒的な突撃をかけてきた。バーローの師団は軍団右翼に配置されていたが、愚かにも部隊を小さな丘(現在ここはバーローの小山と呼ばれている)に向かって動かしたが、これによって前線に突出部ができ、そこが多方向から攻撃されることになった。南軍ジュバル・アーリーの師団はこの機を利用し、バーロー師団を後退させた。バーロー自身も負傷し、捕虜となった。軍団右翼の崩壊は、ドミノ倒しのように軍団左翼を崩壊させ、さらにその左にあった第1軍団にも及んだ。このため北軍はゲティスバーグを撤退し安全なセメタリーヒルまで後退したが、その途中に多くの兵士が捕虜となった。翌日、第11軍団は防御任務につき、セメタリーヒルの東部をアーリーの第2回目の攻撃から守りきった。ゲティスバーグの戦いの前日には、軍団の兵力は10,576人と報告されていたが、戦闘に参加したのは9,000人以下で、戦死368人、戦傷1,922人、捕虜・行方不明1,511の合計3,801人の損害を出した。
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