チャンセラーズヴィルとゲティスバーグとは? わかりやすく解説

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チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:58 UTC 版)

第12軍団 (北軍)」の記事における「チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ」の解説

チャンセラーズヴィルの戦いでは、第11軍団第12軍団が大打撃受けた。しかし、大敗北の混乱の中、第12軍所属連隊前線突破されること無く軍旗も失うことも無かった。チャンセラーハウスでの接近戦参加した砲兵隊も、1門の砲も失うこと無し撤退成功した。この作戦において、第12軍団は最初にラピダン川(ラパハノック川の支流)を渡り撤退時には最後にラパハノック川を渡河した。作戦時の軍団兵力は、30歩兵連隊、5個野砲中隊で、実人員19,929人であったチャンセラーズヴィルでの損害は、戦死260人、戦傷1,436人、行方不明1,119人の合計2,814人であった師団長ウィリアムズジョン・ギアリーであった。トーマス・ラガー(Thomas H. Ruger)准将とチャールズ・キャンディ(Charles Candy大佐旅団が最も被害受けたゲティスバーグの戦いでは、第12軍団はカルプスヒルの勇敢な防衛戦で有名となった。スローカムはゲティスバーグでは右翼司令官務めたため、代わってウィリアムズ軍団長となった第1師団師団長第3旅団長のルガー務めた第2師団長はギアリーであった7月2日午後ポトマック軍司令官ジョージ・ミードは、第12軍団にカルプスヒルを離れてリトルラウンドトップ近く北軍最左翼補強するように命令した。スローカムはその重要性鑑みミード説得してギアリー師団ジョージ・S・グリーン旅団をカルプスヒルに残させた。1個旅団防衛するにはカルプスヒルの前線長く、したがって防御ラインの厚みは無くまた他の部隊からの支援期待できなかった。民間エンジニアであったグリーンは、効果的な野戦防御線を構築した。カルプスヒルは南軍エドワード・ジョンソン師団攻撃受けたが、グリーン旅団はこれを撃退するのに成功したグリーン部下たちに丘を死守するように命じたが、ジョンソン幾つかの部隊抵抗を受けること無く第12軍団が築いていた空になった胸壁達した夜になって第12軍団の兵士達戻って来ると、南軍排除するための絶望的な戦闘発生した長時間に渡る激し戦闘の後第12軍団は胸壁の再奪取成功した第12軍団の前には、何軍兵士の死体積み重なっていた。ジョンソン師団22連隊から構成されていたが、戦死229人、戦傷1,269人、行方不明375人の合計1,873人の損害出したジョンソン師団支援のために派遣された、ウィリアム・スミス、ジュニアス・ダニエル(Junius Daniel)及びエドワード・オニール(Edward A. O'Neal)の3個旅団14連隊受けた損害も、これに加えなければならない他方第12軍団が受けた損害は、戦死204人、戦傷810人、行方不明67人の合計1,081人であった

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チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:59 UTC 版)

第11軍団 (北軍)」の記事における「チャンセラーズヴィルとゲティスバーグ」の解説

1863年2月ポトマック軍司令官ジョセフ・フッカー交代すると、シーゲルポトマック軍内で序列2位将官となった。このことと、第11軍団規模が他の軍団比較して小さかったことから、シーゲル軍団規模拡大願い出た彼の申し出拒否され怒ったシーゲル軍団長辞任した後任には、自身より後任ダニエル・シックルズ先に軍団長になったことに不満をいだいていた、オリバー・O・ハワード少将就任したハワード少将は、1863年5月1日-3日チャンセラーズヴィルの戦い軍団指揮務めたが、構成はチャールズ・デヴァンス(Charles Devens)、フォン・シュタインヴェール及びシュルツの3個師団実働12,619人であり、27連対13連隊ドイツ人連隊であった第11軍団の兵は経験積んだ古参兵が多かったが、軍団長ドイツ人シーゲルからハワードに代わったことで士気落ちていた。5月1日南軍ロバート・E・リー大将とその部下ストーンウォール・ジャクソンは、リスクは高いが大胆不敵な攻撃計画決定した南軍チャンセラーズヴィルの4の兵を分割しジャクソン南軍第2軍団28,000人を率いて北軍右側面を攻撃することとした。5月2日ジャクソンはこの計画完璧に実行し北軍右翼密かに回り込んだが、不運な第11軍団攻撃対象となった北軍右翼は川や山といった地形上の障害物守られているわけではなく、「開放」されていた。ハワード南軍彼の前線攻撃する可能性があることを警告されていたが、ジャクソン攻撃に対して何の準備もしていなかった。午後6時ジャクソン軍団攻撃開始したとき、第11軍団は全く戦闘準備ができておらず、多く夕食食べている最中であった攻撃は完全に成功しジャクソン軍歴中でも最高得点値するものであったいくつかの旅団戦闘のために前線移動させたり、1時間以上勇敢に抵抗し、敵の進撃遅滞させ、その後秩序保って後退することができたが、第11軍団全体にとっては大惨事となったチャンセラーズヴィルでの第11軍団損害は、戦死217人、戦傷1,218人、捕虜行方不明972人の、合計2,407であったゲティスバーグの戦いでも軍司令官ハワード努め師団長フランシス・C・バーロー、フォン・シュタインヴェール、シュルツで、26歩兵連隊と5個砲兵中隊から構成されていた。兵士たちは、チャンセラーズヴィルでの汚名を注ぐ希望をもって戦場向かった6月1日昼頃軍団は町の南部到着したが、第1軍団が町の西で既に戦闘入ったことを知ったハワードはフォン・シュタインヴェールの師団をセメタリーヒルの高地予備として配置し残りの2個師団を北に向かわせた。ハワードは、ウィンフィールド・スコット・ハンコック到着するまでの暫くの間戦闘全体指揮をとった。 南軍リチャード・イーウェル第2軍団から北方から到着し圧倒的な突撃をかけてきた。バーロー師団軍団右翼配置されていたが、愚かに部隊小さな丘(現在ここはバーロー小山呼ばれている)に向かって動かしたが、これによって前線突出部ができ、そこが多方向から攻撃されることになった南軍ジュバル・アーリー師団はこの機を利用しバーロー師団後退させた。バーロー自身負傷し捕虜となった軍団右翼崩壊は、ドミノ倒しのように軍団左翼崩壊させ、さらにその左にあった第1軍団にも及んだこのため北軍ゲティスバーグ撤退し安全なセメタリーヒルまで後退したが、その途中多く兵士捕虜となった翌日第11軍団防御任務につき、セメタリーヒルの東部アーリー第2回目攻撃から守りきった。ゲティスバーグの戦い前日には、軍団兵力10,576人と報告されていたが、戦闘参加したのは9,000人以下で、戦死368人、戦傷1,922人、捕虜行方不明1,511合計3,801人の損害出した

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