ダム建設に基づく利水計画への賛否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:53 UTC 版)
「川辺川ダム」の記事における「ダム建設に基づく利水計画への賛否」の解説
かんがい目的は川辺川ダムの目的の一つであった。本格的に動き出したのは1984年に農林水産省が国営川辺川総合土地改良事業を発表したことによる。しかしこのかんがい目的が、川辺川ダムの必要性を問う最大の原因になった。 国営川辺川総合土地改良事業は川辺川ダムを水源として農地増産を行う事業であったが、既にこの頃は減反政策によって農地自体の減少と農家の減少が顕在化していた。このため当初から不要な事業ではないかという疑問が呈されていた。また参加する農家も川辺川ダム事業費の増大によって負担額が増大、これに疑問を呈する農家も次第に現れてきた。こうした経緯から1994年(平成6年)に対象農家の一部は川辺川ダムを水源に求めるという事業変更を取り消すように農林水産大臣に異議を申し立てたが却下されたため、1996年(平成8年)に農家は熊本地裁に無効申し立てを行う訴訟を起こした。このいわゆる「川辺川利水訴訟」は2000年(平成12年)に地裁で原告敗訴となるが、原告は福岡高裁に控訴した。この頃には参加する原告数は2,000人と対象農家の半数に上り、問題の大きさを物語った。そして三年後の2003年(平成15年)5月福岡高裁控訴審判決で「異議申し立て取り消しは無効」とする原告勝訴の逆転判決となった。被告である農林水産省は最高裁判所に上告せず、判決は確定した。 これ以降国営川辺川総合土地改良事業における川辺川ダムの立ち位置は次第に変化した。2005年農林水産省は水源を求める案として従来の「川辺川ダム案」と相良村に可動堰を建設してこれを水源とする「相良穴藤堰案」を呈示。原告やダム反対派は「堰案」を支持した。さらに翌2006年(平成18年)5月には従来の両案に加え川辺川ダムに水没予定となっているチッソ所有の川辺川第二ダムから取水する「川辺川第二ダム取水案」を呈示。熊本県は「第二ダム案」に沿った事業認定手続きを始めると表明した。一方この事業はかんがい受益地の人吉市など球磨川流域の自治体が参加しているが、農家と同様に川辺川ダム事業費の増加による負担増に難渋していた。この中で8月、相良村村長であった矢上雅義は第三の道を求めて利水事業からの離脱を表明、11月には従来賛成の立場であった川辺川ダムについても反対の姿勢を採ると表明した。12月には村で行われたダム反対集会に後援するなど「反ダム」を明確にし、2008年3月には村長を辞職して熊本県知事選挙に無所属で立候補、ダム反対を訴えた。 2008年の熊本県知事選挙では、立候補した5候補のうちダム事業推進を明言するものはおらず、矢上を含む4候補が「ダム事業反対」を明言。結果的に自民党の推薦を受けダム計画に「保留」の立場を示した蒲島郁夫が大差で勝利したものの、人吉市も従来ダム推進の立場をとっていた市長退陣後の選挙で当選した田中信孝市長がダム問題に中立姿勢を示すなど、自治体の対応に変化が起こっている。 こうした流れを受けて農林水産省は2007年1月、事業の水源について「川辺川ダムに依存した形での水源案を取りまとめない」と表明。事実上、川辺川ダム事業からの撤退を表明した。さらに同年6月には電源開発も長引くダム事業に電力開発の費用対効果が成り立たないとして水力発電事業からの撤退を表明。ここにおいて川辺川ダムの利水目的は喪失した。また球磨川漁業協同組合との漁業権交渉不調による国土交通省の土地収用法に基づく収用についても、先に述べた捏造などが発覚して2005年に熊本県収用委員会より漁業権収用申請を取り下げるよう勧告され、従わない場合は却下すると最後通告されたことから国土交通省は収用を断念。ここにおいて川辺川ダム計画は事実上白紙の状態に陥った。 このように、川辺川ダム事業においては、住民側と行政側が計画論で対立し、計画策定から40年たってもなおダム本体の着手(あるいは計画の抜本的見直し)にめどが立たない状況にある。この状況は、文部科学省の外郭団体である科学技術振興機構 (JST) のまとめた「失敗百選」において「(住民と行政の)合意形成の軽視による失敗例」として、諫早湾干拓事業等と共に選出されている。
※この「ダム建設に基づく利水計画への賛否」の解説は、「川辺川ダム」の解説の一部です。
「ダム建設に基づく利水計画への賛否」を含む「川辺川ダム」の記事については、「川辺川ダム」の概要を参照ください。
- ダム建設に基づく利水計画への賛否のページへのリンク