ダム建設準備
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大井ダムおよび大井発電所は、大正から昭和戦前期にかけての大手電力会社大同電力によって建設された。 大同電力が岐阜県内において木曽川の水利権を取得したのは、前身木曽電気興業時代の1920年(大正9年)3月のことである。「大井」地点はこのときに許可を受けた5地点のうちの一つで、許可当初は恵那郡中津町駒場(現・中津川市駒場)に取水口を、その下流約11キロメートル地点の恵那郡大井町字奥戸(現・恵那市大井町字奥戸)に放水口をそれぞれ設けるという水路式発電所による計画であった。だが上流の賤母地点や読書地点においては木曽川の河床勾配は約100分の1であるが、大井地点においては280分の1に過ぎず、水路式発電所を設けるには有利な地点でないので、その後の調査でダム式発電所に変更し尖頭負荷を持たせることが適切と結論付けられた。そして1921年(大正10年)8月、「大井」地点をダム式発電所に変更する計画変更許可を得た。 ダム建設が決まったものの、堤高50メートル級のダム建設の経験は当時の日本にはなく、しかも下流に濃尾平野を控えるという立地のため、その設計・施工には周到な調査研究が必要であった。そこで大同電力では地質学者の巨智部忠承に委嘱して地質調査を実施し、3か所の候補地を精査、その中からダム建設に最も適するとして最下流の場所を選定した。調査結果を踏まえ、1922年(大正11年)4月、ダム・発電所の建設場所を大井町字奥戸から恵那郡蛭川村字弓場(現・中津川市蛭川字弓場)へと移す設計変更許可を得た。またダム調査のため技師畠山好伸をアメリカ合衆国へと派遣した。 大井ダム・発電所の着工は1922年7月。建設所長には日本最初のコンクリートダムである布引五本松ダム(神戸市)などを手掛けた技術者佐野藤次郎を招聘し、アメリカからも技術顧問団を招いた。ところが工事中、所長の佐野がダム建設用コンクリートに用いる骨材の採取場所をめぐって会社と対立し辞任するというトラブルが発生した。後任建設所長にはアメリカでのダム調査から帰国した畠山好伸が就き、同じくアメリカから帰国した石川栄次郎が建設次長となった。
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ダム建設準備
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武庫川水系では、西宮市が川下川ダムより早い昭和40年から丸山ダムを計画したが、武庫川下流の井組との水利権交渉が難航して着手までに8年が経過した。川下川ダムではそのような問題は無く計画はスムーズに進んだ。宝塚市は川下川ダム予定地の少し上流に北部地域給水用の小ダム(玉瀬ダム)を所有しており、利水権を取得済みであった。また昭和34年頃から下流の尼崎・伊丹・西宮の水利組合の灌漑面積が減少してゆき、上流での取水に対する強硬な態度も軟化していた点もある。用地買収についても玉瀬ダムの建設に際して計画用地の一部を取得済みであり、全体の買収は昭和48年度末に完了した。
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