サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年–1872年)
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「セザール・フランク」の記事における「サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年–1872年)」の解説
フランクは彼の3つ目かつ最後となるオルガニスト職に刺激され、活気づいていた。1858年1月22日、彼は奉献間もないサント・クロチルド聖堂のメートル・ド・シャペル(maître de chapelle)のオルガニストに就任した。この職は彼がその後生涯にわたって留まるものである。7か月後、この教会に新設されたカヴァイエ=コルのオルガンは3段の手鍵盤を備えるもので、フランクがこの楽器の正奏者になるとともにテオドール・デュボワが合唱指揮者と副オルガニストを務めることになった。このオルガンがフランクの演奏と作曲に与えた影響は最初期のピアニストとしての経験同様に、彼のその後の作曲活動を考えるにあたって無視することはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器について「疑いなく制作者のこの時期までの傑作として位置付けられる」と記している。フランク自身はサント・クロチルド教会の司祭にこう述べている。「私がどれほどこの楽器を愛しているのか、あなたがご存知だったなら(中略)指の下でのしなやかさ、そして私の思いに従順なことといったら!」フランク自身も30鍵の足鍵盤を持つこのオルガンの性能に負けじとプレイエル社から購入した練習用の足鍵盤を自宅に置き、教会のオルガンの前で何時間も過ごすのに加えて足鍵盤の技術向上に勤しんだ。このオルガンが持つ響きの美しさと注がれた優れた技術により、彼は即興演奏家として、またオルガンはもちろん他のジャンルの作曲家としても名声を得るようになっていった。オルガン曲、声楽曲、そしてハーモニウム曲が順繰りに作曲されるようになり、そうした中で生まれた楽曲では『3声のミサ曲』(1859年)が最もよく知られる。この作品は何年もかけて作曲されたために楽章間で出来が不揃いであるが、ここからフランクの作品中でも最も長く愛される曲の1つである『天使の糧』が生まれている。これ以上に注目されるのが、1860年から1862年にかけて書かれたオルガンのための『6曲集』である。この曲集は今日でも演奏機会の多いオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smith)によれば100年以上にわたるフランスのオルガン芸術史における初めての傑作、そして「メンデルスゾーン以降に書かれた最も重要なオルガン音楽」である。フランクは各曲をサン=サーンスなどの同僚のピアニストやオルガニスト、師であるブノワ、そしてカヴァイエ=コルに献呈している。曲集中の『前奏曲、フーガと変奏曲』Op.18と『交響的大曲』Op.17はフランクのオルガン作品の中でも最もよく知られるものである。 オルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コルが新設または改修したオルガンの除幕式や奉献式での演奏を任されるようになっていった。彼はルイ・ルフェビュール=ヴェリーがオルガニストとなったサン=シュルピス教会の新しいオルガン(1862年)をはじめ、以降ノートル=ダム教会、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂(英語版)、サントトリニテ教会などで演奏した。これらの楽器の中には彼が単独、もしくはサン=サーンスと共に助言を行ったものもある。フランクが担当するサント・クロチルド聖堂では、彼の即興演奏を聴くために人々がミサや礼拝に訪れ始めていた。さらに、フランクは自作や他の作曲家の作品を取り上げて聖堂でのオルガン演奏会を開催するようになっていた。そうした中でおそらく最も知られる演奏会は1866年4月にリストが出席した日曜ミサだろう。聖歌隊席に腰かけてフランクの即興演奏を聴いたリストはこう述べた。「あの時のピアノ三重奏曲集を書いた人物のことを、これまでに私が忘れてしまうことなどあり得るだろうか。」これに対してフランクはこう不平をもらしたのではないかと思われる。「あれ以降、もっといい仕事をしてきたと思うのだが。」そのひと月後にリストはサント・クロチルド聖堂においてフランクのオルガン作品を紹介する演奏会を企画し、聴衆から好評を得るとともに音楽雑誌にも好意的に報じられた。フランクはリストだけでなく、活動の主軸をドイツに置くハンス・フォン・ビューローの演奏が聴けることを喜んだ。また、フランクは1869年にノートル=ダム聖堂でアントン・ブルックナーの演奏を耳にし、ドイツのオルガン音楽とそれらをいかに演奏すべきかという点について理解を深めている。彼は定期的に門下生の集まりを催すようになり、オルガンには建前から関わっていたに過ぎなかった弟子たちもフランクの作曲技法に関心を示すようになっていった。 フランクはこの時期にも合唱を用いた作品を作曲し続けたが、大半は出版されないままとなった。当時は音楽院を修了した音楽家でも皆がそうであったように、フランクは過去の多声音楽に詳しくなかった。フランクは礼拝音楽をその当時の様式に沿って作曲し、デイヴィスはこれを「宗教的な偏りを持つ世俗音楽」と表現した。そうした状況ではあったがフランクは1869年から主要な合唱作品となるオラトリオ『至福』の作曲にとりかかり、普仏戦争の勃発による中断等を経て10年余りをかけて完成させた。1848年の革命の際と同様に、この戦争によって彼の弟子の多くがパリを離れ、もしくは戦闘で落命するか障害を負うなどして彼の元から去っていった。彼は再び愛国的な楽曲をいくつか作曲したが、当時は時代の厳しい状況の下では演奏されることはなかった。収入が減少するとともに食料品や燃料の価格が高騰し、フランクとその一家は経済的な苦境に陥った。音楽院も1870年から1871年の年度は開校しなかった。こうした中、フランスの音楽家の間には自らの音楽に対する認識の変化が生じていた。とりわけ戦後からは確固たるフランスの音楽として「ガリアの芸術 Ars Gallica」を追い求めるようになったのである。この言葉は新たに結成された国民音楽協会の標語として掲げられた。フランクは協会の最古参の会員となり、1871年11月に開かれた最初の演奏会のプログラムにはフランク作品が取り上げられた。
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