ゴシップによる低迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:52 UTC 版)
「ティファニー (アメリカの歌手)」の記事における「ゴシップによる低迷」の解説
彼女の成功によりプロデューサーのジョージに全面的なマネージメントを任せることになった彼女は、ジョージによる商業的な管理をされることになる。順調に2曲のナンバー1ヒットを出した後、2ndアルバムのレコーディングを始める。 その頃のティファニーは、完全なるジョージからの洗脳により彼女の両親の許可なく仕事を進めていたため、彼女と両親の関係が上手くいかなくなり彼女は家を出てしまう。心配した彼女の母親は警察に家出の捜索願いを出した。成功し始めた彼女は、母親が芸能活動の邪魔をしないよう裁判所に訴えた。一時的に彼女の1番の応援者であった祖母が彼女の保護者となることを裁判所が任命した。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのティファニーは、このスキャンダルでティーンアイドルに必要な清純なイメージを崩された。 彼女の4thシングルは期待されていたが、スキャンダルの効果で思ったほど成功はできなかった。彼女の資産管理を巡って父親と母親が訴訟を起こすと、彼女のマネジメントを巡りマネージャーと両親との法廷闘争となる。ティファニーはマネージャーのジョージ・トビンと契約を結び、完全なコントロールのもとで7枚のアルバムを作ることに同意させられていた。ティファニーの母親は未成年者のティファニーのために代わって契約に署名した。彼女は離婚する際の担当弁護士にそのことを相談したのだった。後に専門弁護士に相談しなかったことをとても後悔したと語っている。契約の条件は、異常なほどトビンに有利なものとなっていた。当時のトビンのパートナーはブラッド・シュミット(en:Brad Schmidt)で、この2人がティファニーの稼ぎの80%をピンハネしているような状況だった。彼女を取り巻く大人たちが、彼女の成功に対応できないだけではなく自分自身の利益に走るようになってしまい、彼女を取り巻く環境のイメージダウンをさらに加速させ、修復できないものにしていった。 5thシングルの売上はさらに下降。そんな中、当時かけだし中のニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを、周囲の反対を押し切り彼女のコンサートに前座として迎えることにした。しかし、これが彼らに人気を奪われる皮肉な結果にも繋がった。なんと彼女のツアー中、人気絶頂を迎えたニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックにコンサートのメインを奪われることになってしまう。ティファニーは前座へと交代。ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックにファンを丸ごとうけわたす事態となる。彼らのグループの一員のジョナサン・ナイトと交際したことが相乗効果となって、さらに人気は下降。彼女の保護者やプロデューサーの誤解により、熱狂的なファンの1人を彼女の意志とは関係なくストーカーとして告訴するということもあった。 1990年クリスマスに公開予定だった人気アニメ『スペースファミリー/ジェットソンズ』で、彼女がサウンドトラックの3曲を担当。彼女のマネージャーがその中のメインキャラクターであるジュディ・ジェットソンの声優をさせることをゴリ押し。ジュディ・ジェットソン役の声優であるジャネット・ウォルドの録音部分をすべてティファニーの声で再録音することを発表し、多くのアニメファンから避難の声が殺到した。映画は半年後まで公開を先延ばしされることになり、結果、散々な酷評を受け興行的に失敗で終わった。 ティファニーはジョージ・トビンのマネージメントと決別。ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを管理していた、ニューヨークを拠点とするエンターテイメント・マネージャーのディック・スコット(en:Dick Scott)と契約する。その後、MCAはトビンに対して契約違反訴訟を提起する事態になる。トビンが未発表のティファニーの曲を別のレコード会社に売却しようとしていた。 ティファニーはMCAとトビンの訴訟に巻き込まれてしまった。その後、ティファニーにその権利を獲得し訴訟に勝利している。 その後、マネージメント会社の交代により「ティファニー・ファン・クラブ」はサービスを終了。彼女の悪循環は終わりなく、そのスキャンダルは当時止まることはなかった。 2枚目のアルバム『フレンズ』を約1年後にリリース。スキャンダルのために短い期間で制作され、完成度の低いアルバムと各紙が評価した。商業的には成功と言えるが人気の下降は止められなかった。 「オール・ディス・タイム」6位、「ラジオ・ロマンス」35位、「フレンズ 」ACチャート37位、「It's the Lover (Not the Love)」ランク外。「Oh,ジャッキー」は日本のみで発売。 3枚目のアルバム『ニュー・インサイド』をリリース。この頃から音楽性や容姿を変更。新しいティファニーとして、外見だけではなく歌い方も当時のR&B調に変更した。しかし、カントリー・フレーバーを漂わせることで、彼女の個性は消えていった。彼女は精力的に多くのトークショーに参加してプローモーションに励んだが、セールスに繋がらず商業的には失敗で終わった。 1991年4月、商業的な失敗によりディック・スコットら経営陣がティファニーとの契約を打切り。彼女は大金を失い、歌手としての人気がなくなり、そのショックと失望からドラッグ中毒となってしまう。立ち直るためには、しばらく時間を要さなければならなかった。最終的に彼女は薬物の使用をやめ、将来の夫に出会い、安定した家庭生活を始める。そして妊娠も経験。仕事面ではレコード会社側のバックアップを誰からも得られず、次のアルバム・リリースの予定は一向に立たなかった。表舞台からいったん姿を消した。 1993年、ティファニーはジョージ・トビンと和解し、アルバム『ドリームス・ネヴァー・ダイ』を日本先行発売。アジア中心にツアーを始める。1994年に新たな曲を加えたバージョンを本国で発売そしてツアーを計画していた。 しかし1994年、アルバムのためにジョージ・トビンが用意した曲の大部分が盗作と判明。ティファニーはジョージ・トビンと決別。その後のアメリカでのニュー・アルバムのリリースやツアーの計画をキャンセルした。2000年8月のインタビューによると、曲は実際には新しい曲ではなく、PC Questというバンドが既に録音して売り出されていたという。彼女の復帰はまたしても失敗に終わる。 1995年、シンガポールにてベスト・アルバム『オール・ザ・ベスト』をMCAよりリリース。トミー・ペイジ(en:Tommy Page)とのデュエット「Close Our Eyes」、ティファニーが作曲に携わった「Winding Road」という2曲の新曲が収録されている。 この頃、ティファニーはナッシュビルへ移住。カントリー・ミュージックへの転身のために新しいマネージャーのパム・ルイスを起用した。彼は以前、ガース・ブルックスやトリーシャ・イヤウッドのマネージメントをしていた。 何曲かのレコーディングをしたがレーベルからの契約が得られず上手く話は進まなかった。2年ほどでロサンゼルスへ戻ることになった。1998年にポップス界に戻りレコーディングを始めると共にパム・ルイスとの契約を終了。1999年 昔のマネージャーであるブラッド・シュミットと契約し、本格的な復帰を目指す。
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